『猫』の回想録
教育上微妙によろしくないかもしれない表現があります。
これは、理久がまだ日本で平和……というのも少々おかしいような日々をすごしていたときの話。
「ちょっと、体育館裏まで来いや」
時代遅れな台詞を吐きつつ理久の襟首を掴んで引っ張ったのは、大学の前で待ち合わせを言い出した次兄だった。そのまま本当に大学の体育館裏まで理久を連行し、今度はベストをがしっと掴んで豪快に頭突きを食らわせた。
「っ……なんでいきなりカツアゲみたいに連行されなきゃならないんだバカ兄貴!」
「やかましい! お前のせいで知らなくてもいい世界を知っちまっただろうが! つーか、これみよがしに由梨ちゃん手作りのベストにネクタイかよ! 俺に対するイヤガラセか!」
「なんで妹のワードローブ把握してんだ気色悪い。それ以前に身に覚えが無さ過ぎる!」
確かに、理久が身に着けているベストもネクタイも由梨が作ったものだ。だがこれは由梨の趣味の一環で、そこに従姉妹への親愛以上のものはない。次兄とてそれはわかってるはずだった。が、頭に血が上っていることもあって引っ込みが付かないようだった。ベストを掴んだまま理久をガクガク揺さぶっている。
「あー……もしかして、またふられた?」
途端に揺さぶる手がぴたりと止まる。図星らしい。次兄が振られては兄弟に八つ当たりするのはいつものことだった。となると、次の展開も予想できる。
「飲むぞ。付き合え」
「未成年つれて酒……」
「お前は飲まなきゃいい。安心しろ、黙ってりゃ中坊にゃ見えねえよ」
こうなった次兄に何を言っても無駄だ。やれやれとため息をついて、由梨に連絡する。事情を説明すれば代わりに夕食を作っておいてくれるはずだ。
「で。なんて言って振られたわけ」
くるくるとノンアルコールカクテルをかき混ぜてみる。頼んではみたが想像以上に甘ったるく、一口飲んでギブアップだった。
「言う前に振られた。……俺は呼び出されたんだ。期待しちまっても仕方ないよな?」
次兄と同じ授業を取っている学生がいる。仮に百合子さんとしておこう。
百合子さんは美人だ。そのへんのアイドルが隣に立ったら、アイドルがかすんで見える程度には。加えて学業優秀、性格も朗らかだが決してでしゃばらない。大和撫子を具象化したらこうなるんじゃないかといえる女性だった。某ギャルゲーの(悪女と名高き)主人公の幼馴染な彼女をさらに美化したと思えばほぼ間違いないはずだ。次兄も他の男子学生と同じく百合子さんのファンだった。だから、百合子さんから「話がある」と告げられて浮かれても仕方の無いことだった。
浮かれてついて行った空き教室で、百合子さんは真剣な顔で口を開いた。
「冬沢君。私、見ちゃったの。日曜日に、冬沢君が美少年とデートしてるところ」
「……は?」
次兄はゲイではない。惚れっぽい性格ではあるが、対象はあくまでも女性だ。しかも日曜日にデートなどしていなかった。
「……日曜なら人違いだと思うんだけど。出かけはしたけど、妹に付き合わされて買出しに行っただけだし」
「言いわけしなくても大丈夫だよ。私その辺のことは理解があるつもりだから! だから、お願い!」
百合子さんは麗しい笑みを浮かべながらメモ帳とペンを取り出した。
「取材させてほしいの!」
そして見た目は大和撫子・実態は腐女子な百合子さんの強引な取材が始まった。ようやく、理久が『恋人関係にある美少年』だと勘違いされていることに気づいた。妹だと何度主張しても照れ隠しだと思われ、挙句美少年と同棲しているとまで勘違いされ……開放された頃にはいろいろとボロボロだった。
「……とまあ、何もしてなくても誤解と勘違いはいつものことだったからな。猫扱いされようと、善意で生肉を食わされようと、私的にはいつものことってわけだ」
手土産を持って訪れたアーロンとの暇つぶしの雑談。アーロンがうっかり『理久が猫扱いされてもあまり怒らないのは何故か』と訊ねたのが始まりだった。
「そんなこともあったよねー。その人ってば理久んちに押しかけた挙句『禁断の兄弟愛!』とか勝手に盛り上がってたっけ」
「そうそう。そんで上の兄貴と下の兄貴まで一時的に女性不信になったな」
「……わたくしも女性不信になりそうです……」
渇いたのどを潤す為に飲んだワインは、変に酸っぱい気がした。
このエピソードに出てくる腐女子はネタ的に誇張したものです。実際の腐女子はもっと常識的な人たちが多いだろうことをフォローしておきます。