EP 3
満腹の幸福感も束の間、リアン(4歳)を待っていたのは、母マーサによる「賢者育成プログラム」の開幕だった。
静寂に包まれた書斎。
リアンは床に敷かれたクッションの上で、小さくあぐら(座禅)をかいていた。
その頭上には、辞書のように分厚く、ずっしりと重い魔導書が一冊、危うげなバランスで載せられている。
「さぁ、リアン。背筋を伸ばして。呼吸を整え、心を無になさい」
マーサが優雅に扇子を揺らしながら、リアンの周囲をゆっくりと歩く。
その足音は一切しない。元S級冒険者の魔法使い、その実力の片鱗だ。
「本を落としたら、最初からやり直しです。時間は30分。……動いてはいけませんよ?」
「う、うん……」
リアンは微動だにせず答えたが、内心では脂汗を流していた。
(……本が、重いんだけど。漬物石かよ、これ)
午前中の剣術と弓術で酷使した筋肉が、プルプルと痙攣しそうになる。
だが、少しでも姿勢が崩れれば、頭上の本がバランスを崩し、マーサの「はい、やり直し(ニッコリ)」という死刑宣告が下るのだ。
「いいですか、リアン。魔法とは、単なるエネルギーの放出ではありません」
マーサの講義が始まる。
「正しき姿勢、正しい心構え、そして正しい呼吸……。それらが整った時、魔力は貴方の内側から無理なく、泉のように自然と溢れてきます」
彼女は窓から差し込む光に手をかざした。
「そうすれば、世界に満ちる火の神、水の神、地の神、風の神……彼らが貴方を『友』と認め、喜んで力を貸してくれるのです」
精霊や神との対話。感覚的で、どこか宗教的な教えだ。
普通の4歳児なら「神様とお友達になるの?」と無邪気に聞くところだろう。
だが、リアン(元シェフ兼経営者)の脳内変換は違っていた。
(……要するに、『基本』の徹底か)
リアンは静かに目を閉じ、呼吸を深くした。
(料理学校でも、散々同じ事を言われたな。『包丁の持ち方、立ち方が悪い奴は、最高の料理を作れない』と)
雑な姿勢は、雑な仕事を生む。
焦った心は、味のブレに繋がる。
食材(精霊)の声を聞き、そのポテンシャルを最大限に引き出すには、料理人(術者)自身が「器」として完成されていなければならない。
(なるほどな。魔法も料理も、突き詰めれば『下準備』が全てってことか)
リアンの中で、何かが腑に落ちた。
「神様」という曖昧な概念が、「調理すべき最高の食材」という具体的なイメージに置き換わる。
スゥ……ッ。
リアンの呼吸が変わった。
無駄な力みが消え、体幹が一本の柱のように安定する。
すると、どうだろう。
重かったはずの本が、体の一部になったかのように軽く感じられ始めた。
「……あら?」
マーサが足を止めた。
息子の周囲を漂う魔力の質が、急激に澄み渡っていくのを感じ取ったからだ。
ノイズが消え、純粋な魔力が静かに循環し始めている。
「(まだ教え始めたばかりだというのに……この子は、もう『瞑想』に入ったのですか?)」
マーサは驚き、そして嬉しそうに微笑んだ。
「素晴らしいわ、リアン。……どうやら、貴方は神様に愛される素質があるようね」
「……」
リアンは答えない。答えると本が落ちるからだ。
だが、その心の中では、冷静に次のステップを分析していた。
(姿勢はクリアした。次は、この溢れてくる魔力をどう『調理』するかだ……。火加減(出力調整)はどうやるんだ?)
剣と弓に続き、魔法という新たな「調理器具」を手に入れたリアン。
スパルタ教育の初日は、意外にも彼の職人気質に火をつける結果となった。




