EP 9
湿った朝霧が立ち込める、ルナハン南部の湿地帯。
張り詰めた緊張感の中、アークス率いる精鋭部隊と、オブザーバーとして参加したクルーガが現場に到着した。
剣を抜き、魔法の詠唱準備を整え、一斉に茂みを切り開く。
だが――。
「……何もない」
アークスが呆然と呟いた。
そこにあるはずの焚き火の跡、武器、そして凶悪なリザードマン達の姿。それらが一切存在しない。
ただ、少しだけ地面の土が真新しく掘り返されたような跡があるだけだ。
「斥候の情報では、リザードマン4体との報告が確かにあったのに……。誤報だったのか?」
アークスは周囲を見回すが、足跡一つ、鱗一枚落ちていない。
「ふむ……。おかしいですね」
クルーガが地面に片膝をつき、黒い革手袋で土を掬った。
彼の黒豹の耳がピクリと動き、鼻がひくつく。
「えぇ。おかしな話です。斥候はベテランだ。見間違いなど……」
「いえ、私が言っているのは『匂い』の話です」
クルーガは掬った土をパラパラと落とし、黄金の瞳を細めた。
「獣臭も、血の匂いも、生活臭もしない。……まるで、ここだけ世界から切り取られて『洗浄』されたかのように、不自然なほど無臭だ」
クルーガは立ち上がり、意味深な笑みを浮かべてアークスを見た。
「アークス殿。昨日の午前中、私達が騎士団作戦室で話していた懸念事項が……既に終わっている」
「……つまり?」
アークスが怪訝な顔をする。
「考えてもみてください。オーク、オーガ、そして今回のリザードマン。……謎の輩は決して表に出てこない。そして、魔物共を何の痕跡もなく始末出来る、圧倒的な力を持っている」
クルーガは言葉を切り、鋭い視線を虚空に向けた。
「だが……それほど神に近い力が有るのに、謎の輩は『騎士団の情報より先』に、事件を解決出来ない」
「……ッ!」
アークスの背筋がゾクリとした。
「もしその存在が全知全能なら、騎士団が気づく前に魔物を消しているはずだ。しかし、奴は違う。必ず『騎士団が情報を掴んでから』、そして『騎士団が到着する前』に行動を起こしている」
クルーガの推理は、冷徹な刃のように真実の輪郭を切り裂いていく。
「つまり、奴は独自の索敵網を持っていない。……奴の行動原理は、常に『ルナハン騎士団の情報』に依存しているのです」
「クルーガ殿……。それは、まさか」
「えぇ。奴は、騎士団の動きを把握している。……あるいは、我々の会話が『筒抜け』になっているか」
クルーガはニヤリと笑った。
それは、見えない獲物の尻尾を確実に掴んだ捕食者の顔だった。
「収穫はありましたよ、アークス殿。リザードマンはいませんでしたが、もっと巨大な『化け物』の生態が分かりました」
クルーガは踵を返し、霧の中を歩き出す。
「さて、帰りましょう。……ゼノン騎士団長と、少しお話が有りますので」
(情報漏洩のルートを洗う。盗聴か、内通者か。……範囲は絞られた)
クルーガの背中を見送りながら、アークスは言い知れぬ不安に襲われていた。
まさか、自分たちの作戦室の中に、その「目」や「耳」があると言うのか?
……その時、アークスはふと、家で待つ息子リアンの顔を思い出した。
「まさかな」と首を振り、彼は部隊に撤収を命じた。
だが、黒豹の捜査官は、既に「シンフォニア家」というパズルのピースを、疑惑の盤上に乗せようとしていた。




