EP 3
生後一週間。
元・三つ星シェフの青田優也こと、リアン・シンフォニアは、ベビーベッドの柵越しに天井の木目を数えるだけの日々を送っていた。
(はぁ……退屈だ。暇すぎて死にそうだ)
リアンは短い溜息をついた。
この一週間で、聞き耳を立てて情報を収集し、状況は大体整理できた。
俺は元A級冒険者の夫婦、アークスとマーサの息子として生まれた。場所はマンルシア大陸の辺境都市ルナハン。世界樹の森に近い要衝らしい。
家は裕福、両親は英雄。転生先としては「SSR」を引いたと言っていい。
だが、リアンには深刻な欠乏症が発生していた。
(コーヒーが……飲みたい……)
カフェイン切れによる頭痛(気のせいかもしれないが)が止まらない。
母乳は美味い。それは認める。だが、あの苦味と香りが恋しい。せめて、ポケットに常備していたコーヒーキャンディを一粒だけでも……。
(こんな剣と魔法のファンタジー世界に、コーヒーなんてあるのか? ……いや、待てよ)
リアンはハッとした。
あのジャージ姿の駄女神、ルチアナがくれた「手切れ金」代わりのスキルがあったはずだ。
(そうだ、俺には**【ネット通販】**がある! ……でろ! ネット通販!)
リアンは天井に向かって、強く念じた。
フォン……
微かな電子音と共に、リアンの目の前に半透明のブルーライトを放つウィンドウが出現した。
24インチほどのタブレット端末のような画面が、空中に浮いている。
(で、出た……! 本当にありやがった!)
画面には見慣れた地球のECサイトのトップページ。
『タイムセール開催中!』『あなたへのおすすめ』の文字が、日本語で踊っている。
(検索……検索だ! 『コーヒーキャンディ』……いや『ドリップコーヒー』……!)
リアンは興奮し、小さな手を伸ばした。
だが、そこで彼は絶望的な事実に直面する。
(と、届かねぇ……!)
生後一週間の腕はあまりに短く、そして筋肉制御が未熟すぎた。
狙ったアイコンをタップしようとしても、腕は「ふにゃん」とあらぬ方向へ空を切る。
まるでUFOキャッチャーのアームより頼りない。
それに、画面の右上には残酷な数字が表示されていた。
【チャージ残高:0円】
(……そうだった。金だ。金がないと買えないんだった……!)
目の前に「お急ぎ便で明日お届け」の極上コーヒー豆があるのに、手も届かなければ金もない。
Tantalusの責め苦かよ。
(う、ううう……飲みたい……タップしたい……!)
リアンは必死に体をよじり、画面に触れようと腹筋(存在しない)に力を入れた。
その時だった。
ブリュリュ……
下腹部から、無情な音が響いた。
(あっ……!?)
未発達な括約筋は、主人の意思とは無関係に、その責務を放棄した。
温かく、不快な感覚がオムツの中に広がっていく。
(うわあああああ!! 違う! 俺が出したかったのはネット注文だ! ウンチじゃない!!)
25歳の元シェフとしてのプライドが、音を立てて崩れ去る。
情けなさと不快感、そしてどうにもならない無力感。
「おぎゃああああああああ!!(拭いてくれぇぇぇ!!)」
リアンは泣いた。心の底から泣いた。
「はぁい、リアン。どうしたの~?」
すぐにドアが開き、エプロン姿のマーサが入ってきた。
鼻をひくつかせると、彼女はふふっと優しく微笑んだ。
「あらあら、今日もいっぱい出たわね。元気な証拠よ。さ、キレイキレイしましょうね」
「俺にやらせてくれよ、マーサ!」
後ろから、非番のアークスが飛び込んできた。
彼はやる気満々で袖をまくっている。
「アークス? あなた、オムツ替えなんて出来るの?」
「任せろ! 剣の扱いより繊細に、ドラゴンの世話より丁寧にやるさ! 俺はリアンの父親だからな!」
アークスは不器用な手つきでベビーベッドに近づく。
マーサはそんな夫を見て、頬を染めてうっとりとした声を上げた。
「まぁ……素敵。アークスったら、イクメンね」
「いやぁ、照れるなぁ。マーサに褒められると、ドラゴンも素手で倒せそうだ」
「うふふ、もう。夜もそのくらい元気ならいいのに」
「よ、よせよマーサ。リアンが聞いてるぞ」
二人の間に、ピンク色のハートマークが見えそうな甘い空気が流れる。
目の前で繰り広げられる夫婦漫才。
その間も、リアンの尻は気持ち悪いままだ。
(イチャイチャしてないで、早くオムツ変えてくれぇぇぇ!?)
(あと父さん! 手つきが危なっかしい! 拭き残しがあったら許さんぞ!)
「おぎゃあ! おぎゃあ!!(早くしろ! プロ意識を持て!)」
リアンの絶叫は、幸せな両親には「元気な赤ちゃんの可愛い泣き声」にしか聞こえていないのだった。




