EP 11
あれから数週間が経った、ある日の夕方。
シンフォニア家の食卓には、いつものように穏やかな時間が流れていた。
「はい、リアン様。あーん」
オニヒメがスプーンで、裏ごしした野菜とトライバードの挽肉を混ぜた特製離乳食を差し出す。
リアン(1歳)は、それをパクリと口にした。
(ん……今日の味付けも完璧だ。隠し味にコンソメを使ってるな? 腕を上げたなオニヒメ)
「パパ、遅いわね……」
時計を見上げたマーサが、ふと呟いた。
いつもなら、この時間には「リアンー! ただいまー!」と騒がしく帰ってくるはずのアークスが、まだ戻らない。
「そうですね。今日は定例の巡回任務だけだと伺っておりましたが」
オニヒメが答えた、その時だった。
ドンドンドンッ!!
玄関の扉が激しく叩かれた。
ただの来客ではない。緊急事態を告げる、乱暴なノック音。
「開けてくれ! アークス副団長だ!」
マーサの顔色が変わる。オニヒメが素早くリアンを抱きかかえ、玄関へと走った。
扉が開かれると、そこには血の気が引くような光景があった。
ルナハン騎士団の団長、ゼノンと数名の部下が、ぐったりとした大柄な男を抱えていたのだ。
鎧はベッコリと凹み、隙間からは鮮血が滴り落ちている。
「貴方!? どうしたの!?」
マーサの悲鳴に近い声が響く。
「へへ……ちょっと、ドジっちまってな……。オークの野郎の、渾身の一撃を貰っちまった……」
アークスは強がって笑おうとしたが、その顔は土気色で、口の端から血が流れていた。
「奥さん、すみません。突然」
ゼノン騎士団長が、苦渋の表情で頭を下げる。
「森の奥で変異種のオークと遭遇しまして……。アークスが部下を庇って……。治療院まで遠く、傷が深くて緊急性が高かった。アークスは『平気だ』と強がっていますが、賢者である奥さんに診て貰った方が良いと判断しました」
「分かりました……! リビングへ運んで! 急いで!」
マーサの瞳から、「母」の甘さが消え、かつての「爆炎の賢者」の鋭さが宿る。
アークスがソファに横たえられると、マーサは即座に杖をかざした。
「聖なる光よ、傷ついた戦士の肉体を修復せよ! 『パーフェクト・ヒール(完全治癒)』!!」
カッ!!
部屋中が眩い光に包まれる。
高位の回復魔法がアークスの体を包み込み、裂けた皮膚や折れた骨を強引に繋ぎ合わせていく。
「ぐぅ……っ!!」
アークスが苦悶の声を漏らす。
急速な再生は、激痛を伴うのだ。
光が収まると、出血は止まり、顔色も少し戻っていた。だが、マーサの顔は晴れない。
「……これはあくまで、魔力で身体の治癒力を極限まで活性化させて塞いだだけです。砕けた骨の破片や、筋肉の断裂……深い所には、専門医の外科手術と絶対安静が必要です」
「なに……こんだけ回復出来たら、あとは根性で治すさ……」
アークスは脂汗を流しながら、無理やり上半身を起こそうとした。
「馬鹿野郎! 無理をするなアークス!」
ゼノンがその肩を押さえつける。
「貴様には長期休暇を命ずる。これは団長命令だ!」
「しかし! 団長! 最近、森の魔物たちの動きが活発だ! 俺が抜けたら……ルナハンの平和は、俺の……騎士団の仕事です!」
「貴方! お願いだから……今は休んで!」
マーサが涙ながらに訴える。
その悲痛な叫びは、オニヒメの腕の中にいるリアンの耳にも届いていた。
(父さんが……あんなに強い父さんが、傷を負った)
リアンは、血と汗の匂いが混じるリビングを見つめた。
平和な日常の皮が一枚剥がれ、その下にある残酷な現実が露わになった瞬間だった。
元A級冒険者だろうと、騎士団の副団長だろうと、死ぬ時は死ぬ。
ここは日本ではない。剣と魔法、そして魔物が跋扈する、死と隣り合わせの世界なのだ。
(……俺は、甘えていた)
ネット通販で買い物を楽しみ、夜な夜な公園で小銭を稼ぐ。
そんな「遊び」の延長で生きていけるほど、この世界は優しくない。
もし、今日のアークスの傷がもう少し深かったら?
もし、マーサが間に合わなかったら?
俺は、二度目の人生でも「大切な人」を失うことになる。
(父さんや母さんを悲しませない為に……)
リアンの小さな手が、胸元を強く握りしめた。
そこには、いつも肌身離さず持っている相棒――胡桃割り人形の『センチネル』があった。
(俺が……俺が父さん達を、このルナハンを守るんだ)
表の世界では、無力な赤ん坊でいい。
だが、裏の世界では違う。
俺には『シンフォニア小隊』がある。
大人が気づかない影から、魔物を、悪意を、先手必勝で殲滅する力がある。
(なぁ、相棒。……遊びは終わりだ。これからは「戦争」だ)
リアンの瞳に、赤ん坊とは思えない昏い決意の炎が宿った。
センチネルの無機質な目が、それに呼応するように一瞬だけ光った気がした。
アークスが倒れたこの日、ルナハンの影で暗躍する「1歳児の守護者」が、真の意味で覚醒したのだった。




