EP 17
生後3ヶ月。
シンフォニア家の子供部屋。
深夜2時、世界が寝静まる丑三つ時。
ベビーベッドの中で、リアン(中身25歳・元三つ星シェフ)は虚ろな目で天井の木目を数えていた。
(……158、159……。はぁ)
深い溜息が漏れる。
(思い通りに動かせない赤ん坊の体で、毎日毎日、変わらない天井を見続けるだけ……。これ、精神的にキツすぎるだろ。独房の方がまだ本読めたり筋トレできたりする分、マシかもしれん)
肉体は急速に成長しているとはいえ、まだハイハイすら満足にできない。
大人の思考を持つ彼にとって、この「身体的拘束」は拷問に近かった。
ストレスで胃に穴が開きそうだ(母乳しか飲んでいないので胃には優しいが)。
(……限界だ。運動不足で気が狂う)
リアンは目を閉じ、意識を集中させた。
もはや手慣れたものだ。魂を滑らせるように、ベッドの隅に佇む「彼」の中へ。
「……(起動)」
カシャン、と微かな音を立てて、胡桃割り人形『センチネル』が立ち上がった。
リアンは木の指をグーパーと開閉させ、首を回す。
(ふぅ……。やっぱり、体を自由に動かせるってのは良いな。重力から解き放たれた気分だ)
センチネルはクローゼットの下から、愛用の「100円ナイフ薙刀」を取り出した。
部屋の中央、月明かりが差し込むスペースへ移動する。
(鈍った感覚を取り戻す。イメージしろ……厨房での千切り、フランベ、盛り付けの流れるような動作を)
ヒュンッ!
センチネルが薙刀を振るう。
踏み込み、突き、払い、納刀。
その動きは舞踏のように美しく、かつ殺人圏内に入れば指一本残さない鋭さがあった。
(……悪くない。関節のグリス(魔力)も馴染んできた)
一通りの型を終え、センチネルは肩で息をする仕草をした。
(ふぅ、良い汗かいたぜ。……ま、人形だから汗腺なんてねぇけどな)
適度な運動で精神的な鬱憤を晴らしたリアンは、次なる欲求に駆られた。
「自由」への渇望だ。
(せっかくだ。少し廊下に出て、家の警備状況でも確認するか? 台所まで行けば、何か面白いものがあるかもしれない)
センチネルは忍び足で子供部屋のドアへと近づいた。
ドアノブには届かないが、ドア下の隙間から廊下の様子を窺うことはできる。
センチネルがドアに耳を当てた、その時だった。
……スー……、……スー……
微かだが、規則正しく、深く、そして力強い寝息が聞こえてきた。
それはただの寝息ではない。
百戦錬磨の戦士だけが持つ、眠っていても「気」が張り詰めている独特の呼吸音。
(……居る。ドアの向こうだ)
リアンの背筋(木製)に戦慄が走る。
この気配は、アークスでもマーサでもない。
最近雇われた、あの完璧超人メイドだ。
(オニヒメだ……。あいつ、まさか子供部屋のドアの前で椅子に座って寝ずの番をしてるのか?)
鬼人族の聴覚は人間を遥かに凌駕する。
もし今、俺がドアを少しでも動かせば……。
『――害虫ですか?』
あの金棒『粉砕丸』が、ドアごと俺を粉砕しに飛んでくる光景が脳裏に浮かんだ。
今のセンチネルの装備(100円ナイフ)では、あの鬼メイドには逆立ちしても勝てない。
(……撤収だ。深夜の子供部屋だけが、今の俺が自由に活動できる唯一のセーフティゾーンかぁ)
センチネルは肩を落とし、すごすごとベッドへ引き返した。
自由への扉は、最強の門番によって閉ざされていた。
(……戻るぞ)
意識を肉体へと帰還させる。
重く、不自由な感覚が戻ってくる。
リアンは天井を見上げながら、虚空に指を走らせた。
(出ろ、ネット通販)
青白いウィンドウが浮かび上がる。
現在時刻は深夜2時半。
画面の中には、魅惑的な商品が並んでいる。
『春日井 炭焼珈琲キャンディ 1kg 業務用』
『UCC 職人の珈琲 ドリップコーヒー』
(……はぁ)
リアンは画面の中のコーヒーキャンディを指でなぞった。
(オニヒメという鉄壁の守り。赤ん坊という肉体の檻。そして資金不足)
今の環境は恵まれている。愛されている。
だが、その愛ゆえの監視が、元シェフのささやかな楽しみを阻んでいる。
(俺のコーヒーキャンディへの道は……遠いな)
リアンはウィンドウを閉じ、ふて寝するように目を閉じた。
夢の中でなら、熱々のブラックコーヒーと、香ばしいキャンディを味わえることを祈って。
静寂の中、ドアの向こうから聞こえるオニヒメの寝息だけが、リアンの安眠(と監禁)を守り続けていた。




