EP 34
甘い罠と、生還した偵察兵
演習開始から3日目の夜。
岩山エリアは、昼間の熱気が嘘のように冷え込んでいた。
Bチームの陣地は、文字通り「お通夜」のような空気に包まれていた。
ルナとキャルルという二大災害によって、1週間分の食料の8割を初日で失った彼らは、極限の飢餓状態に陥っていた。
クラウスが「私財を投げ打ってでも後で埋め合わせをするから、今は耐えてくれ!」と励ますものの、減る腹はどうにもならない。
「……もう限界だ。草でも食うか?」
「バカ言え、ボブ先生が『現地調達は退学』って言ってたろ……」
焚き火を囲むBチームのモブ生徒たちは、ゲッソリと頬をこけさせ、虚ろな目をしていた。
その横では、元凶であるルナとキャルルが「お腹すいたー」「人参ないー」とゴロゴロ転がっており、さらに彼らの精神を削っていく。
「……おい。Aチームの陣地、食い物の匂いがしねぇか?」
見張り台に立っていたモブ生徒の一人、男爵令息のテオが、ふらつく足取りで降りてきた。
「あいつら、ルナさんを追い出したおかげで食料が余りまくってるんだ……。夜陰に紛れて、少しだけ『偵察』してこないか?」
「偵察って……泥棒だろ?」
「背に腹は代えられない! クラウス様には内緒で、俺が少しだけ頂いてくる!」
テオは決死の覚悟で、暗闇に紛れてAチームの陣地へと向かった。
彼の脳内は、すでに温かいスープと硬くないパンのことで支配されていた。
しかし。
バサッ!!
「うわぁっ!?」
Aチームの陣地に忍び込もうとした瞬間、足元に仕掛けられていたロープが跳ね上がり、テオは逆さ吊りにされてしまった。
「ギャァァ! 離せ! 離せよぉ!」
藻掻くテオの前に、松明を持った数人の人影が現れる。
中心に立っていたのは、Aチームの総大将――リアン・シンフォニアだった。
「……夜這いにはまだ早い時間だぜ、Bチームの偵察兵さん?」
リアンは、焚き火で炙った串焼き肉を齧りながら、ニヤリと笑った。
「くっ……! 殺せ! 煮るなり焼くなり好きにしろ!」
テオが涙目で叫ぶ。
「物騒なことを言うなよ。演習なんだから殺しはしないさ」
リアンは指を鳴らし、味方のモブ生徒にテオを木から降ろさせた。
そして、後ろ手に縛られたテオの前にしゃがみ込むと、串焼きの肉の匂いをわざと彼の鼻先に漂わせた。
「ぐぅぅ……ッ」
テオの腹が、限界の音を鳴らす。
「お前に、良い話があるんだ」
リアンは悪魔のように優しく囁いた。
「な、何だよ……! 食い物で俺を釣ろうったって、クラウス様を裏切るような真似は……!」
「テオ・バルバトス男爵令息」
リアンが不意に、フルネームを呼んだ。
「お前の実家、最近領地の不作で財政が苦しんでるんだってな? 借金の返済期限も迫ってるとか」
「なっ……!? なんでお前がそんなこと……!」
テオは顔面を蒼白にさせた。貴族にとって、家の財政難を他人に知られることは最大の恥である。
「俺はこれでも、王都の有力な商会……『ゴルド商会』の会長と太いパイプを持っててね。もしお前が、この戦いで俺たちに『良い働き』をしてくれるなら……」
リアンはテオの耳元に顔を寄せた。
「俺の口利きで、お前の実家に無利子の融資と、事業支援を約束してやってもいいぞ?」
「……っ!!」
テオの瞳孔が開いた。
領地の借金問題は、彼が学園に入学した最大の理由であり、最も重いプレッシャーだった。
それを、目の前の男爵は「一言で解決できる」と甘く囁いているのだ。
「さぁ、どうする? クラウスと一緒に餓死して名誉を守るか、それとも実家の領民を救うか?」
圧倒的な情報力と、相手の一番弱い部分をピンポイントで突くえげつない交渉術。
テオは葛藤で全身を震わせ、そして――。
「……ふざ、けるなッ!!」
血を吐くような声で、リアンを睨みつけた。
「そ、そんな話に乗るかよ!? 俺はアルヴィン侯爵家の騎士道に憧れてるんだ! 卑怯な手で家を救ったって、親父は喜ばないッ!」
テオは目をギュッと瞑り、拷問を覚悟した。
だが。
「……そうか。立派な心がけだ」
リアンの声から、突然「毒」が消えた。
彼は立ち上がると、懐からナイフを取り出し――テオを縛っていた縄を、あっさりと切ってしまった。
「え……?」
テオが呆然とする。
「交渉決裂だ。帰っていいぞ」
「は……? 帰っていいって、俺は敵の偵察だぞ!? 捕虜にするとか、情報をもらすまで痛めつけるとか……!」
「しないしない。言ったろ、演習だって」
リアンはポンとテオの肩を叩き、味方のモブ生徒から小さな包みを受け取った。
「ほら、これ持ってけ」
「……なんだこれ」
「余ったパンとチーズだ。お前ら、ろくに飯食ってないだろ。お土産だ」
「な……!?」
テオは混乱の極致に達した。
敵陣に忍び込み、捕まり、買収を断ったのに……無傷で解放され、あろうことか食料まで持たされたのだ。
「い、意味がわからん! お前の同情なんて……!」
「いいから行け。夜道は暗いから気をつけてな」
リアンはシッシッと手を振り、テオをBチームの陣地へと追い返した。
テオの背中が闇に消えていくのを、Aチームのモブ生徒が不安そうに見つめていた。
「……いいんですか、リアン君? あいつ、絶対にクラウスの所に戻りますよ。せっかく捕まえたのに」
「それに、あいつがリアン君の誘いに乗ったフリをして、後で裏切るかもしれないじゃないですか」
モブ生徒の疑問に、リアンは焚き火の炎に照らされながら、この世の全てを見透かしたような、冷酷な笑みを浮かべた。
「あいつが俺の誘いに乗ったか、乗らないかはどうでもいいんだよ」
「え?」
「大切なのは……『俺たちに捕まって、無傷で、しかも食料まで持って帰らされた』という事実だ」
リアンは手元の串焼きの肉を噛みちぎりながら、クックッと笑った。
「飢餓状態の極限環境で、一人だけ無傷で帰還した偵察兵。……お前なら、そいつを『無条件で信用』できるか?」
「あっ……!」
モブ生徒が息を呑む。
「これからBチームの陣地で、最高のショーが始まるぞ。……『疑心暗鬼』という名のな」
肉体ではなく、心を壊す。
リアンが仕掛けた「見えない毒」が、Bチームの陣地へと運ばれていった。




