EP 18
勝利への執念、禁断の「実戦」
「……なっ!?」
クラウスの視界が、茶色い物体で埋め尽くされた。
それは、リアンが左手に持っていた――剣の『鞘』だった。
正統な騎士道において、武器以外のものを投げつけるなど言語道断。
ましてや、必殺の突きの最中、全神経を剣先に集中させているこのタイミングで。
クラウスの思考が空白に染まる。
咄嗟に防御反応が働き、顔を守ろうと剣の軌道がわずかに上へ逸れた。
そして、鞘がガツンとクラウスの額に当たった。
「ぐっ……!」
痛みと、視界の遮断。
そのコンマ数秒の隙が、勝負の分水嶺となった。
「――隙だらけだ」
リアンはすでに、クラウスの懐に潜り込んでいた。
剣ではない。
彼は剣を捨て、身体ごとクラウスに突っ込んだのだ。
ドスッ!!
「がはっ!?」
強烈なタックル。
重心を崩されたクラウスは、受け身も取れずに背中から地面に叩きつけられた。
肺から空気が強制的に排出され、呼吸が止まる。
「な、何だ……!?」
観客たちがざわめく間もなく、リアンは流れるような動作でクラウスの上に馬乗りになった。
マウントポジション。
総合格闘技において、圧倒的有利とされる体勢だ。
「くっ……離せ! 卑怯だぞ!」
クラウスが藻掻くが、リアンは体重移動でそれを封じ込める。
そして、リアンは右の拳を振り上げた。
剣ではない。拳。
それは、騎士の試合ではなく、ただの喧嘩(殺し合い)の所作だった。
「……終わりだ、クラウス」
リアンの瞳には、冷徹な光が宿っていた。
感情はない。ただ、敵を無力化するという目的のためだけに最適化された、機械のような目。
「やめろぉぉぉ!!」
クラウスが叫ぶ。
だが、リアンの拳は容赦なく振り下ろされた。
狙うは、鼻梁。人体急所の一つだ。
ブンッ!!
風切り音が鳴る。
誰もが、クラウスの顔面が砕ける音を想像し、目を覆った。
――ピタリ。
リアンの拳は、クラウスの鼻先数センチのところで静止していた。
いや、止められたのだ。
「……そこまで」
気だるげな、しかし絶対的な強制力を持った声が響いた。
リアンの体は、見えない鎖によって空中で固定されていた。
「……ちっ」
リアンは舌打ちをして、力を抜いた。
ボブ教師が、指先から魔法の残滓を漂わせながら近づいてくる。
「勝負あり。……勝者、リアン・シンフォニア」
静寂。
拍手はない。歓声もない。
あるのは、困惑と、恐怖と、そして軽蔑を含んだ沈黙だけだった。
「はぁ……はぁ……」
拘束が解かれ、リアンはゆっくりと立ち上がった。
クラウスは地面に大の字になったまま、呆然と天井(空)を見上げていた。
額には鞘が当たった赤い痣。
そして目の前には、自分を殴ろうとした拳の残像が焼き付いている。
「……負けた……のか? 僕が……?」
信じられないという表情だった。
剣術では圧倒していた。技術でも、体力でも勝っていたはずだ。
それなのに、最後に立っていたのは、泥だらけの男爵だった。
「……きたねぇぞ!」
沈黙を破ったのは、観客席からの罵声だった。
「あんなの剣術じゃねぇ! 喧嘩だ!」
「鞘を投げるなんて、騎士の風上にも置けねぇ!」
「やっぱり平民上がりだ! 品がない!」
非難の嵐。
ランドルフを筆頭に、貴族の生徒たちが口々にリアンを罵り始めた。
神聖な決闘を汚されたという怒りが、会場全体を包み込む。
「……ふん」
リアンは、罵声を背中で受け止めながら、落ちていた自分の剣と鞘を拾った。
言い訳はしない。
勝ちは勝ちだ。手段がどうであれ、生き残った方が勝者。それがアークスから教わった、そして前世で学んだ「真理」だ。
(……ま、こうなるよな)
リアンは淡々と服の汚れを払った。
嫌われるのは覚悟の上だ。これで「変な奴」認定されて、誰も近づかなくなれば好都合――。
そう思って、リングを降りようとした時だった。
「……待て」
呼び止める声があった。
倒れていたはずの敗者――クラウスが、ふらつきながらも立ち上がっていた。
「……まだ何かあるのか? お坊ちゃん」
リアンは振り返らずに聞いた。
また説教か? それとも再戦の要求か?
だが、クラウスの口から出た言葉は、予想外のものだった。
「……あの時」
クラウスは、震える声で言った。
悔しさで顔を歪めながらも、その瞳は真っ直ぐにリアンを射抜いていた。
「もし、あれが『鞘』ではなく……『短剣』だったら?」
「……あ?」
「もし、君が鞘を投げた後、タックルではなく……隠し持っていたナイフで喉を狙っていたら?」
会場が静まり返る。
クラウスは、自分の喉元を押さえた。
「……僕は、死んでいた」
ゴクリ、と誰かが唾を飲む音が聞こえた。
「剣術の試合としては、僕の勝ちだったかもしれない。……だが、『殺し合い』としては……僕の完敗だ」
クラウスは唇を噛み締め、深々と頭を下げた。
「……参った。僕の負けだ、リアン」
その言葉は、罵声を上げていた生徒たちの喉に蓋をした。
あのプライドの高いクラウスが、自ら負けを認めたのだ。
しかも、「実戦なら死んでいた」という、騎士として最も重い事実を受け入れて。
「……へぇ」
リアンは少しだけ目を見開いた。
そして、ニヤリと笑った。
(……意外と骨があるじゃねぇか、お前)
「……次は負けないからな」
リアンはそれだけ言い残し、ボブの方へと歩いていった。
背後では、ルナとキャルルが「リアンかっこいー!」「すごーい!」と手を叩いていたが、それ以外の生徒たちは、複雑な表情で幼き勝者を見つめていた。
ただの卑怯者か、それとも――。
リアンの評価が、「モブ」から「危険人物(要注意キャラ)」へと完全にシフトした瞬間だった。




