第一章 0歳児の勇者
銀座、午後11時。
そこは、優雅な客席とは裏腹に、怒号と熱気が支配する戦場だった。
「優也! 3番テーブルのポワレ、ソースの状態は!?」
「優也! ヴィアンド(肉料理)のガルニ(付け合わせ)が遅れてるぞ!」
シェフ長の怒鳴り声が、蒸気とオイルの匂いが充満する厨房に響き渡る。
三つ星フレンチ『ラ・ルミエール』。その心臓部で、スーシェフの青田優也は、千手観音の如き手際でフライパンを振っていた。
「うす! ソース・ヴァンルージュ、乳化完了! ポワレは後3分で仕上げます!」
優也の脳内では、複数のオーダーの調理工程が完璧なタイムラインとして構築されていた。肉の火入れ、ソースの煮詰め、皿の温め。全てのタイミングを秒単位で計算し、無駄な動きを一切削ぎ落とす。
それは料理というより、精密な「演算」に近かった。
「はい、お上がり!!」
最後の皿をパスへ送り出し、戦場の喧騒がふっと遠のく。
深夜1時。長い一日が終わった。
「じゃ、お疲れっす」
着替えを済ませた優也は、裏口を出た瞬間に深く息を吐いた。
夜風が熱った頬に心地よい。ポケットから愛用のコーヒーキャンディを取り出し、ガリリと噛み砕く。広がる苦味と甘味が、酷使した脳に染み渡る。
駐輪場に停めてある愛車、カワサキの大型バイクに跨り、エンジンを吹かした。
「そういや……晩飯食ってねぇな。腹が減った」
三つ星の料理を作っておきながら、自分の腹を満たすのはコンビニ飯だ。
優也は苦笑しながら、バイクを夜の街へと滑り出させた。
コンビニの駐車場にバイクを停めようとした時だった。
街灯の下、数人の人影が何かを取り囲んで笑っている。
「ギャッ、フーッ!」
「おら、逃げんじゃねーよ」
乾いた音と、猫の悲鳴。
不良たちが、野良猫を囲んで蹴りを入れているのが見えた。通り過ぎる人々は、関わり合いになるのを恐れて目を逸らしている。
(ちっ……しょうがねぇな)
優也はヘルメットを脱ぎ、バイクを降りた。
見て見ぬふりをするには、今日の彼は少しイライラしていたし、何より――彼は弱いものが虐げられるのが嫌いだった。
「あんたら、こんな事して恥ずかしくないのかよ」
低い声で声をかけると、不良たちが一斉に振り返る。
「あぁ? なんだテメェ」
「正義の味方かよ、うぜぇな」
リーダー格の男が、隠し持っていた金属バットを弄びながら近づいてくる。
優也は構えようとしたが、厨房での過労が祟ったのか、一瞬足がふらついた。
「死ねや!」
鈍い音が響く。
視界が強烈に揺れ、次にアスファルトの冷たさが頬に伝わった。
熱い液体が頭から流れていく。薄れゆく意識の中で、逃げていく猫の後ろ姿が見えた。
(あぁ……逃げれたか。よかったな……)
(……くそ、俺の人生、ここまでかよ。まだ、新しい包丁のローン、終わってねぇのに……)
意識は、深い闇へと落ちていった。
「……ん、……ぁ?」
目が覚めると、そこは不思議な空間だった。
雲の上のような、和室のような、妙な場所。
目の前にはちゃぶ台があり、そこで一人の女性がスルメを齧りながらワンカップ酒を煽っていた。
緑色のジャージ。足元はサンダル。髪はボサボサで、どこからどう見ても休日の疲れたおばさんだ。
「んぐ、んぐ……ぷはーっ! やっぱこれよねぇ。……お? お目覚めですかぁ? 青田優也さん」
女性は赤ら顔でこちらに手を振った。
「え? あ? ……ここは?」
「はい、ここは審判の場。いわゆる、貴方はお亡くなりになりましたー」
「……まじかよ。TSUTAYAのDVDの返却とか、どうすんだよ」
「ま、まぁまぁ。亡くなったら延滞料金も発生しませんから。気にしない気にしない」
軽い。あまりにも軽すぎる。
優也は頭を抱えた。
「はぁ……あんた、誰?」
「私? 私は女神ルチアナ。この世界、アナステシアを管理してる女神様よ」
ルチアナと名乗ったジャージの女は、スルメの足を咥えたまま胸を張った。
「私ね、貴方の善行に感動しました! 私、猫ちゃんが大っ好きなんですよぉ! 私の愛する猫ちゃんを庇って死ぬなんて、貴方、見上げた根性してるわ!」
「はぁ……どうも」
「というわけで、貴方にボーナスステージ! 剣と魔法の世界『アナステシア』で転生する機会を与えます!」
「アナステシア世界? い、異世界転生ってやつかよ」
優也は眉をひそめた。ラノベのような展開だが、目の前の女神の生活感のせいで現実味が湧かない。
「はい。あ、ちなみに。猫ちゃんを虐めて、貴方を殺した不良たちなんですけど」
ルチアナはニコリと笑った。その笑顔は慈悲深い女神そのものだったが、目が笑っていなかった。
「私の神通力を使って、現場に駆けつけた警察官の手を滑らせて、全員射殺させちゃいました☆」
「!?」
優也は絶句した。
「い、いや、俺が殺される前にしろよ!?」
「てへ☆」
「てへ☆っじゃね〜よ!?」
この女神、邪神なんじゃないか?
優也のツッコミを無視し、ルチアナは空になったワンカップを置いた。
「ま、まあまあ。過ぎた事は水に流して。転生特典として、貴方には便利なスキル『ネット通販』をあげますから」
「ネット通販?」
「はい。地球上で売買されてるネットの品を、アナステシアに取り寄せられるスキルです。Amazonでも楽天でも、業務スーパーの卸サイトでも使い放題! 勿論、使用には現地の通貨が必要になりますけどね」
「通貨か……。タダじゃねぇのか」
「世の中、金ですよ金。ま、貴方ならうまくやるでしょ。……あ、そろそろ時間ですね」
ルチアナが指を鳴らすと、優也の足元が光り始めた。
「青田優也さん。良い異世界転生を~。あ、向こうに行ったら美味しいコーヒー淹れてね~」
「あぁ、ありがとう……ルチアナ。次はちゃんとした服着ろよな」
光が優也を包み込み、意識が白一色に染まる。
――暖かい。
そして、狭い。
身体が思うように動かない。
強い力で押し出される感覚と共に、視界が開けた。
「おぎゃあ! おぎゃあ!!」
(なんだ!? 声が……勝手に出る!?)
視界がぼやけているが、誰かに抱き上げられているのが分かった。
大きく、力強い腕。そして、優しく包み込むような柔らかい腕。
「貴方……産まれたわ! 元気な男の子よ!」
美しい声が聞こえた。視界が徐々にクリアになると、涙を浮かべて微笑む美女と、髭面の厳つくも頼もしそうな男が覗き込んでいた。
「良くやった! マーサ! 俺達の子供だ!」
男――アークス・シンフォニアは、感動に打ち震えながら赤子を抱きしめた。
「名前は? 貴方」
「そうだな……。歴代の勇者の名にあやかって、『リアン』と言うのはどうだろう?」
「まぁ、素敵。リアン……いい名前ね」
マーサ・シンフォニアは愛おしそうに赤子の頬を撫でた。
その時、赤子――中身は25歳の元シェフ、優也の脳内に衝撃が走った。
(はぁ!? リアン!? 俺の名前、優也じゃないのかよ!?)
(ていうか、ここからスタートかよ! 赤ちゃん転生かよ!? 聞いてねぇぇぇ!!)
「おぎゃあああああああ!!(ふざけんなルチアナあああ!!)」
ルナハンのシンフォニア邸に、元気な産声(絶叫)が響き渡る。
こうして、元三つ星シェフにして簿記1級所持者、青田優也のアナステシアでの第二の人生――『リアン・シンフォニア』としての物語が幕を開けた。




