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愛している

作者: 夕暮れの家

犬系彼氏が描きたくてやりました。今読み返すと犬系?となっていますが、これはこれでと思うのでそのままにしておきます。お楽しみください。

※本作には視点変更が度々あります。

俺は小さいころからずっと陸上をやっていた。夏のグラウンドの焼けるような匂い、スパイクで蹴り上げると舞う赤土、息が切れる手前のあの鋭い空気。それが何よりも好きだった。短距離のスタート前、全身が音を立てずに震えるあの一瞬のために生きていた。

オリンピック候補生と呼ばれ、未来は一本のレーンみたいに真っ直ぐ続いていると思っていた。


だが靭帯を切った瞬間、そのレーンはぷつりと途切れた。

救急車のサイレンが遠くで鳴っているように聞こえ、足は自分のものじゃないみたいに冷たかった。医者に「元通りは難しい」と静かに言われたあの時、胸の奥が深い穴みたいに空いた。風も通らない、音も響かない穴だった。


親は厳格で、俺が陸上を選んだときも散々揉めた。「現実を見ろ」と繰り返す父親の低い声が今も耳の奥に残っている。結局喧嘩して家を出た。ずっと一人暮らしだった。


稼ぐ術を失って転がり込んだのは、「愛している」と言った女の部屋だった。

彼女に「愛してる?」と聞かれれば「愛している」と返した。反射的に。深く考えたことはない。

好みのタイプってわけでもない。地味で、まっすぐで、胸も平らで、ヒョロヒョロしていて、でもなぜか彼女の作る料理だけはやたらうまかった。


彼女が働きに出る朝、部屋にはコーヒーの匂いが残る。俺はソファーに寝転び、天井の白い模様を眺めながら一日を潰した。窓から差し込む光が、午後になると部屋の端に少しずつ移動する。それを目で追うだけの時間だった。


その生活が、永遠とは言わないが、ずっと続く気がしていた。

ある日、彼女が三日間の出張に行くという。


「ふーん」


それくらいの反応だった。彼女がいない夜は静かで、空気が重くなくて、妙に肩が軽かった。リラックスすらしていた。


だが、二日目の朝、家を出るときの彼女の背中がふっと弾むようだった気がしてきた。足取りが軽くて、浮き立っているようだった。そう思えてきた。

それが妙に引っかかった。胸の奥で小さなトゲが刺すような感覚があった。


三日目。そろそろ帰ってくる時間だろうと思いながら待っても、彼女は帰ってこなかった。時計の秒針がやけに大きな音で耳に触る。

もしかして浮気か、と考えがよぎる。旅行か。新しい男か。

胸の奥が熱くなり、ムカムカがせり上がってきた。


じっとしていられなくなり、外に出た。夜の空気は冷たく、頬を刺した。歩幅は自然と広くなり、足が勝手に早歩きになっていく。

最寄りの駅へ着く頃、スマホが震えた。

もうすぐ駅に着くという連絡。何か食べたいものあるか、なんてのんきな文面。


その瞬間、胸の中で何かが切れたみたいだった。

走った。

久しぶりすぎて呼吸も足の運びもバラバラで、思い通りにならない。苛立ちながら、それでも止まる気にはなれなかった。風を切る感覚が、少しだけ昔を思い出させた。


改札口を抜けてくる彼女を見つけたとき、全身が勝手に動いた。

抱きしめた。腕の中に収まった彼女の体は温かくて、柔らかくて、ふっと香水の匂いがした。

彼女は驚いたように目を丸くして、それから恥ずかしそうに笑い、そっと背中に腕を回した。


その瞬間、俺の頭が冷えた。

我に返って、彼女をぐいっと離し、


「帰るぞ」


とだけ言った。

顔は見れなかった。



次の日の朝、彼女を駅まで送った。

早朝の空気は少しひんやりしていて、街路樹の葉が弱く揺れていた。彼女は仕事用の鞄を腕に、改札の前で一度振り返る。

光が差し込む、彼女が改札を潜る瞬間、こちらに大きく手を振った。

俺は片手を軽く上げて応える。彼女の姿が人の流れに溶けて見えなくなるまで、立ち尽くしていた。


帰って来るまで少し時間がある。

駅前の喫茶店に入り、窓際の席に腰を下ろした。

店内には落ち着いたジャズが小さく流れ、焙煎した豆の香りがふわりと漂っている。

コーヒーを一口すすり、持ってきていたノートを開く。

静かな朝の空気の中で、耳に届くのはカップを置く音と、時折聞こえてくる電車の発車ベルだけ。

暇つぶしのつもりで頭の中に浮かぶ言葉を書き出すと、白いページにインクが滑る感触が妙に心地よかった。


やがて、彼女が駅に戻ってくる時間になった。

俺は早めに改札出口へ向かい、人の流れの少し離れたところで仁王立ちになって待った。

通勤客が足早に通り過ぎる中、不意に彼女が現れた。

こちらに気づいた彼女が小さく微笑む。

俺は隣に立つと「帰るぞ」と短く言い、視線をそらしながら歩き出した。

彼女がくすりと笑う気配が背後でして、それが妙にくすぐったかった。



私は休日だが出かける準備をしていた。

クローゼットの前で軽くメイクを整え、カバンに財布を入れていると、背後から声がした。


「どこ行くの?」


問いかけは短く、それでいて少しだけ不安そうなニュアンスが混じっていた。


「買い物行ってくる。食材ないから」


そう返すと彼はほっとしたように一歩近づき、「ついてく」とだけ言ってきた。

最近は、どこへ行くにもこうして彼がついてくる。

それが少しおかしくて、でも嬉しくて、私は心の中で苦笑した。

まるでリードをつけて、大きなモフモフした犬を散歩させているような気分になる。

もちろん、彼にそんなことを言えば怒られるだろうけど。


以前は、私が「愛してる?」と聞くと、彼は面倒くさそうにしながらも「愛してる」と返してくれていた。

それが最近では、正面から答えてくれなくなった。

聞くとそっぽ向き、顔を逸らしたままボソッと何かを言うだけ。

そのくせ、私が「愛してるよ」と言うと、「当たり前だろ」と拗ねたように怒る。

本当に訳が分からない。


でも、なぜかその変化が可愛くて仕方がない。

彼のお尻に生えている尻尾がぶんぶんと振られている光景が脳裏に浮かんでしまうほどに。



俺は彼女を待つ時間、どうにも暇で、駅近くの喫茶店に入った。

午前の柔らかい光が差し込む店内は、古い木のテーブルが並び、コーヒー豆が焼ける香りがゆっくりと漂っている。

席に腰を下ろし、熱いコーヒーをすすりながら、持ってきたノートを開いた。

ペンを走らせると、浮かんだ言葉が紙の上に滑っていく。

陸上選手に憧れ、苦難を乗り越え、ついにオリンピックで金メダルを取る物語――

ただの駄文のつもりだったが、書いているうちに指先が止まらなくなった。


思ったよりまとまった分量になったので、ある日思い切って出版社に持ち込んでみた。

原稿を差し出した時は、読んでもらえるかどうかさえ半信半疑だった。

だが、編集者らしき女はパラパラと手際よくページをめくり、時折眉を動かしながら読み進めた。

そして細かい描写について褒めてきた。

当然だ、実体験なのだから。

気づけば担当がつき、俺は突然“暇を潰すもの”を手に入れた。



彼がある日、家を出ていってからしばらくして、仏頂面のまま戻ってきた。

靴を脱ぐ動作ひとつにも落ち着きがない。

何があったのか尋ねる前に、彼はぽつりと「ノートパソコン…安いやつでいいから。持ち運べるやつ」と言った。

彼が何かを欲しがるのは珍しい。

だから聞かれた瞬間に、私は靴を履き、一緒に家電量販店へ向かった。


店の蛍光灯の白い光の中、いくつかのノートPCを見比べ、手頃なものを選んだ。

渡すと彼はふいに視線を逸らしながら、「ありがと」と一言だけ。

ぶっきらぼうな声だが、その声の奥に小さな熱があった。


その日を境に、彼はノートPCに向かい続けた。

画面の明かりだけが部屋の一角を照らし、彼の指はずっと忙しなくキーボードを叩いていた。

「何をしてるの?」と聞いても、「何でもない」と短く返ってくるだけ。

冷めていた彼がまた何かに熱中している――

それが嬉しくて、私はそれ以上何も聞かずに放っておくことにした。



俺は、担当と打ち合わせを重ねる日々を過ごした。

いつもの喫茶店、机の置かれたコーヒーカップ、赤字で埋まった原稿。

推敲を重ね、ようやく出来上がった原稿は小説のコンクールに出されることとなった。


そして結果は――受賞。

小説大賞。

その瞬間、胸の奥が熱くなった。

書籍化が決まり、世界が少し変わったように感じた。


しかし、そんなことより“金”だ。

金が手に入る。

彼女に何か買ってやりたい。

何が喜ぶだろうか――それを考えているだけで楽しくなった。



──ある日の仕事帰り。


夕暮れの空の色はゆっくりと紫に変わり、街灯がひとつずつ点り始める時間帯だった。

彼と並んで歩いていると、彼が妙にそわそわしていた。

歩幅も落ち着かず、何度もポケットに手を入れては出す。

「どうしたの?」と聞いても、彼は「何でもない」と短く答えるだけだった。


家の玄関を開け、照明をつけると、ダイニングのテーブルの上に小さな箱が置いてあった。

リボンの結び目が少しだけ不器用で、そこに彼らしさが滲んでいる。


「開けて」


彼は少し緊張した声で言った。


箱を開くと、さらにひとまわり小さなおしゃれな箱が入っていた。

ゆっくり蓋を開けると、中には指輪が輝いていた。

光が当たって、小さな石が微かにきらめく。


私が息を呑み、思わず笑顔になった瞬間、彼は無邪気な顔で笑った。

いたずらが成功した悪ガキの顔だ。



ある日、突然、父が家に乗り込んできた。

玄関の扉を荒々しく開ける音が響き、普段は温厚な父の顔には怒気が宿っていた。

「娘につく悪い虫を払ってやる」と、まるで戦にでも行くような気迫だった。


リビングに通されると、彼は父を正面にして座り、背筋を伸ばした。

ふざけた様子は一切なく、表情は真剣そのものだ。

そして、少し声を震わせながら言った。


「真面目に考えています。……もう指輪も贈りました」


その瞬間、私は胸の奥が一瞬だけ熱くなった。

あの指輪はそういう意味だったのかと、ようやく理解した。

あのときの無邪気な笑顔の裏に、そんな想いがあったなんて。


父はさらに何か言いかけたが、険悪な空気が漂い始めたのを察してか、

一緒に来ていた母が間に入り、やわらかい声で場を取りなした。

母の穏やかな笑みで、父は渋々家を後にした。


父母を見送ったあと、彼は無言のままソファに沈み込み、表情は完全に不機嫌だった。

空気が重くなっていくのを感じ、私はキッチンへ向かった。

こういう日の機嫌の直し方は分かっている。

彼の大好物――ハンバーグを焼く。

フライパンの上でじゅうじゅう音を立て、肉汁が弾け、キッチンに香ばしい匂いが広がる。


食卓に置いても、彼は「美味しい」とも「ありがとう」とも言わなかった。

ただ、横目で見ていると、彼の“尻尾”がぶんぶんと揺れている――

そんな幻が見えたので、それで良しとした。



俺の書いた小説は“本格陸上もの”として世に出るはずだった。

だが、世間が最も評価したのは、主人公とヒロインの恋愛描写だった。

なぜそこが刺さるのか――正直わからない。

やはり、あいつには言えないと思った。



描き続けていたある日、映画化の話が舞い込んだ。

金になるならそれでいい、とシンプルに思ったので、迷わずOKした。

出来上がった脚本は、イケメン俳優と美人女優による恋愛物語として完全に再編集されていた。



何も言わず、彼女を映画に誘った。

「デートだね」と彼女は嬉しそうに笑った。

映画館のロビーには甘いポップコーンの匂いが漂い、

上映前のざわつきが耳に心地よく響いていた。


恋愛映画を観るぞというと彼女は小さく首をかしげ、不思議そうにこちらを見た。

何か言葉を求めているような目をしていたが、無視をしてチケットを買った。


映画が始まり終わる。館内が明るくなる。

観客がざわざわと席を立ち始める中で、

彼女は横を向き、いつもの笑顔で言った。


「面白かったね」


それで満足した。



久しぶりに、彼と映画デートに行った。

映画館のロビーは休日らしく人が多く、ポップコーンの甘い匂いと、カップルたちの弾んだ声が混ざり合っていた。

そんな中で、彼が「恋愛映画を観るぞ」と言ったときの衝撃は、胸の奥にじんわり残ったままだ。

あの人が、恋愛映画――。意外すぎて、思わず二度聞きしてしまったほどだ。


始まってみれば、映画は面白かった。

スクリーンいっぱいに広がるトラックの青と、夏の光。

陸上に専念する主人公と、彼を支える彼女の甘酸っぱい青春恋愛物語。

疾走する足音、汗の匂い、青春特有の焦り。

どれもどこか懐かしく、胸の奥をくすぐった。


気づけば、不思議と高校生だった頃の彼の姿が脳裏によみがえっていた。

練習帰りの夕暮れ、トラックの端で汗を拭っていた横顔。

誰よりも速く走れると信じていた彼の、まっすぐな瞳。

――どうしてこの映画を誘ってくれたのだろう。

陸上が舞台の話だったから、彼も何か思うところがあったのかもしれない。


上映中、横目でそっと彼のほうを見ると、

暗闇の中で彼は眉根を寄せ、苦しげなほど真剣な顔をしていた。

まるで、映画の中の走る主人公ではなく、過去の自分を見つめているように思えた。

彼の中の“走れなくなった自分”の記憶が疼いているのだろうか――

ふとそんな不安が胸によぎる。


物語は、中盤から一気に甘さが増して、胸がきゅんきゅんするような展開だった。

スクリーンが白く光るたび、心がくすぐられ、思わず笑みが浮かんでしまった。

彼も、同じ気持ちで観ているのだろうか。


やがて上映が終わり、館内に明るい光が戻る。

ざわつきの中、隣を見ると、彼はまだ難しい顔をしていた。


私は努めて明るく、いつも通りの声で言った。


「面白かったね」


その言葉に、彼はうんうん、と短く頷き、すこしだけ表情を緩めた。

何かが腑に落ちたような顔だった。

――これでよかったんだ、と自然に思えた。



ある日、いつものように駅まで彼に送ってもらい、会社へ行くと、入り口にいた同僚たちが一斉にこちらを振り返った。まるで時間が止まったようだった。


「え、どうしたの?今日、来る日だったっけ?」


ぽかんとした顔。怪訝そうな顔。笑いを堪える顔。

そこでようやく気づいた。

——今日はリフレッシュ休暇だった。すっかり忘れていた。


頬に一気に熱が込み上げる。

居たたまれず、曖昧に笑ってその場を離れると、冷たい外気が汗ばんだ背中に触れ、さらに恥ずかしさが募った。


足早に会社を後にしながら、ふと思い出した。

いつも、私を会社に送り届けた後、彼が時間を潰しているという喫茶店。

彼がよく「居心地がいい」と話していた場所。


——驚かせてやろう。

そんな気まぐれが胸の中にふっと湧いた。


喫茶店に入ると、コーヒー豆の深い香りと、午前の柔らかい光が店内に満ちていた。木のテーブルに反射した光が静かに揺れている。


店内を見渡すと、窓際の席に彼がいた。

しかし、その向かいには見たことのない、美しい女性が座っていた。

長い髪が光を受けて艶めき、指先でカップを持ち上げる仕草すら上品だった。


そして、彼が——

私が見たこともない笑顔を向けていた。

彼女も、花が咲くみたいに微笑み返していた。


胸が一瞬で冷えた。

足元がぐらりと揺れる。

それでも、私はふらふらと二人に近づいてしまった。


彼が私に気づいた瞬間、その笑顔がぱっと消え、驚きと焦りの色が浮かんだ。


——ああ、そういうことなんだ。

理解した瞬間、心がひび割れる音がした気がした。


私はもう耐えられず、踵を返して走り出した。

外に出ると冷たい空気が頬を刺すが、それより胸の痛みのほうが何倍も苦しい。

涙が視界を濁し、景色が溶けていく。

呼吸は途切れ途切れで、肺が焼けるほど苦しいのに、それでも走った。


——少しでも遠くへ。

——現実から逃げたかった。


突然、腕をぐいと掴まれた。

振り返ると、彼が肩を大きく上下させ、白い息を吐きながら立っていた。

指先が震えている。必死で追いかけてきたのがわかった。


きっと睨みつけた。

彼は苦しそうに、それでも真っ直ぐ私を見つめて言った。


「愛している」


胸の奥がぐちゃぐちゃになる。

なにを今さら、と怒りが込み上げる。


「じゃあ、あの美人な人とお幸せに」


吐き捨てるように言うと、

彼の尻尾がしおしおと縮むのが見えた。肩が落ち、

小さく「くぉーん……」と聞こえた気がした。


「仕事相手だ」


「なんの仕事よ!」


怒鳴ると、彼は観念したように言った。


「作家。さっきの人は出版社の担当。」


その言葉が冷たい風よりも鋭く胸に刺さった。

そして次の瞬間、彼は私をぐっと抱き寄せた。

肩に落ちる息が熱い。


「愛してる」


耳元で低く響くその声に、心臓が跳ねる。

返事が、どうしても恥ずかしい。

代わりに、私は彼の胸元にそっと顔を埋め、頭を擦り寄せた。

まるで犬みたいに。


クスクス笑うと、彼は少しだけむくれた顔で言った。


「帰るぞ」


指を絡めると、彼の手は走ってきたせいか、いつもより熱く、心地よかった。

温度が伝わるたび、胸の痛みがじんわり溶けていくようだった。

お読みいただきありがとうございました(*'ω'*)

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