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5【最終話】

 河西に続き、わたしから離れようとしたそのとき、不意に森山さんがこちらを見て、ぽつりと口を開く。


「伴野さんって、彼氏いないの?」


 ――えっ?


 思考が一瞬、止まった。

 頭の中に響いたのは、なんで今それ? という叫びだけ。


 心臓がドクンと跳ね、頬が一気に熱くなる。

 どう答えればいいのか、脳が追いつかない。


 なんなの、この人。どうしてそんなこと、いきなり聞いてくるのよ?

 河西に至っては、絶対男出来ないとまで言ってきたし。ほんと、なんなのよ。このバカップル!


「は? いきなり、何。⋯⋯仲良くもないあなたに教えたくないわ」


 吐き捨てるように言ったけれど、自分の声がわずかに揺れているのがわかった。

 それが、余計に腹立たしかった。


 なぜなら、彼氏云々の一言が、まるでわたしの弱みを正面から突かれたみたいに感じたから。


 森山さんは、ふわりと風に髪を揺らし、小さな三日月のピアスを光らせながら、どこか退屈そうな笑みを浮かべる。


「うふふ。やっぱりいいわ。だって、いそうにもないものね。ごめんなさい」


 ⋯⋯は?


 頭の中で血が沸騰するような音がした。

 馬鹿にした目つき、興味を失ったような視線。

 その一瞬で、わたしの存在なんて、彼氏がいない子というレッテルで、切り捨てられてしまった気がした。


 悔しい。惨め。腹立たしい。

 けれど同時に、胸のどこかで、チクリと痛む感覚もあった。

 いそうにもないと言われて、否定できない自分がいたから。


 言い返そうとした言葉は、結局、喉の奥でからまり、外に出なかった。


「行きましょ」


 森山さんが軽く言う。

 その声はまるで、さっきのやり取りなんて取るに足らないことだったと告げるみたいに、あまりに自然で、あまりに冷たかった。


「ああ」


 河西は短く答え、当たり前のように彼女の隣に並ぶ。


 ――わたしの存在なんて、初めからいなかったみたいに。


 ふたりは、一度もわたしを振り返らなった。


 どうしても、怒りが収まらなかった。

 わたしは、その背中に向かって叫んだ。


「言いたいことだけ言って、そのまま帰るなんて。その前に、言うことあるんじゃない? ねぇ、森山さん」


 振り返った森山さんの瞳に、一瞬の警戒が走る。


「ないと思うけど⋯⋯」

「そう。拾ってもらってお礼も言えない人だなんて、正直、がっかりよ」


 その一言で、森山さんの肩が小さく震えた。

 数秒の沈黙ののち、ようやく小さな声が返ってくる。


「⋯⋯どうもありがとう。これでいい?」


 その表情には、悲しさがにじんでいた。

 河西は振り返りざまに吐き捨てる。


「利香を傷つけるなんて最低だな。明日、謝れよ」


 胸が熱くなる。


「なぜ? お礼を催促するみたいになったけど、わたしは森山さんに生徒手帳を拾ったお礼を言ってもらいたかっただけ。謝って欲しいのはわたしのほうよ。仲良くもない子に、いきなり彼氏なんていないだの失礼極まりないわ。さっきも言ったけど、河西、あんたに盗んだと決めつけられて、何度も繰り返されて泥棒扱いされるし、最低だの、挙げ句に無能扱いされる。わたしだって傷ついたのよ。なのに、どうしてわたしだけが謝らなきゃいけないの?」


 言い返す声は、雨の匂いを含んだ風にかき消されそうだった。

 

 でも⋯⋯わたしの言葉は、ふたりに何も響かなかった。


「また傷ついたから謝れかよ。⋯⋯もういい。お前みたいな女、顔も見たくねぇし、同じ空気吸いたくもない! ――利香、もういいだろ。早く行こうぜ」


 ため息混じりに河西が言い、やがて二人は去って行く。残されたのはわたし一人⋯⋯。


 雨粒が頬を打つ。空は灰色に沈み、遠くの山だけが淡くオレンジに滲んでいる。

 頭の中で、河西の言葉が何度もよみがえった。


『お前みたいな女、顔も見たくもねぇし、同じ空気吸いたくもない!』


 胸が痛む。

 そして、河西から受けた数々のひどい言葉⋯⋯。


 でも――。


 その痛みの奥で、わたしは初めて気づいた。

 男子にだって、女子にだって、わたしはわたしらしさを押しつけてきた。

 その強さが、鬱陶しさや苛立ちに映っていたのだと。


 ――直せばいい。少しずつでも。


 そう思った瞬間、心の奥に小さな芽のような温もりが宿った。


 濡れたアスファルトを踏む足音が、後ろから近づいてきた。


「⋯⋯伴野ぉー」


 声に振り向くと、同じクラスの下北沢しもきたざわがそこにいた。野球部で、いつも大声を張り上げている男子だ。


「どうしたんだよ。こんな雨の中でのんびり歩いてたら、ずぶ濡れになるぞ」


 えっ――。心臓がドクンと鳴る。

 その声が、さっきまで頭を支配していた河西の声に似ていたから。


「⋯⋯あ、う、うん」


 思わず素直に返事をすると、彼は目を丸くした。


「めずらしいな。いつもなら『うるさい』とか『ほっといて』って言うくせに」

「⋯⋯そう、かもね」


 わたしはごまかすように視線をそらす。

 けれど胸の奥がざわついていた。


 ⋯⋯河西じゃなかったんだ。あのとき耳に残った声は、下北沢だったんだ。

 ほっとしたような、でも妙に落ち着かない気持ち。


「早く帰れよ、風邪引くぞ。⋯⋯じゃあな!」


 彼は手を振って、雨の向こうに消えていった。


 ⋯⋯ああ、わたしは女の子にも男の子にも、自分をわかってほしくて押しすぎていたんだ。

 強さを見せることが、本当は弱さの裏返しだった。

 気づいたのは、今日が初めて。


 雨足が強くなり、頬に痛みを感じた。制服も靴もびしょ濡れで、髪から滴る水が冷たく首筋をつたう。

 でも胸の中には、まだ熱が残っていた。怒りの残滓か、それとも別のものか。


 そのとき――。


「い〜しや〜きいも〜。おいも〜」


 唐突に響いた間の抜けた声に、思わず笑いがこみあげる。

 泣き出しそうな胸の奥を、不意に突き崩すような響きだった。


 わたしは空を見上げた。

 灰色の雲の向こう、どこかで光が生まれはじめている気がした。

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