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「……いやよ」


 やっと絞り出したその一言は、かすかに震えていた。

 意地でも謝らない、という気持ちと、怖くて足がすくむ気持ち。

 その両方がせめぎ合い、声の芯が揺れる。


 河西はさらに眉を吊り上げ、言葉を重ねてきた。


「お前がひでぇーこと言ったんだろ。常識的に考えろよ。今のは謝るのが筋だろ!」


 常識。筋。


 ――それを言うなら、そっちじゃないの?


 胸の奥で反論の火花が散る。

 でも、口に出せない。

 言い返したいのに、言えばさらに泥沼になる、と直感してしまう。


 怖い。悔しい。惨め。

 三つの感情が一度に押し寄せて、唇を噛みしめた。


 視線を逸らし、森山さんを見た。

 庇ってくれればいいのに。

 ほんの一言、『お互い様だと思う』とか『伴野さんだけが悪くないと思う』と言ってくれれば、それだけで救われるのに――。


 でも、彼女は黙っていた。

 その沈黙が、胸をさらに冷たく締めつけていく。


「……やだ」


 口から漏れたその言葉は、思っていた以上に小さく、頼りなかった。

 でも、その一言に、わたしの精一杯の抵抗が込められていた。


 謝ったら負ける。

 謝ったら、この場で自分が全部悪いことにされる。

 そう思うと、どうしても口を閉ざすしかなかった。


「強情だな、お前」


 河西の吐き捨てるような声が耳に刺さり、胸がズキンと痛む。


 強情。わがまま。ひねくれてる。

 どうして、いつもそうやって決めつけるの?


 わたしの中で叫びが渦を巻く。

 でも、声にならない。


 なにを言っても、きっと河西は聞き流す。

 森山さんも、きっと笑って済ませてしまう。

 そう思うと、もう言葉が空回りしそうで、口を噤んだ。


 それでも――心の奥では、悔しくて、苦しくて、やり場のない思いが膨れ上がっていく。


 どうして……どうして、わたしばっかり責められるの?


 ほんの少し勇気を出して反論しただけなのに。

 その勇気さえも、強情だと切り捨てられてしまう。


 わたしは、自分の拳を強く握りしめた。

 爪が掌に食い込んで痛い。

 でも、その痛みでしか、このどうしようもない悔しさを紛らわせられなかった。


 胸の奥が、悔しさでいっぱいだった。


「お前、自分が悪いと思ってないなんてとんでもないやつだな。生徒手帳は盗も⋯⋯あ、これはいいや。とにかく! 転びそうな利香のそばにいながら手を貸しもしねぇ! 俺に対しても、ひでぇーことばかり言うし、マジでサイテーな女だな」


 最後の一言が、鋭い刃物のように胸をえぐった。


 サイテー。

 その言葉は何度も何度も頭の中でこだまし、心をズタズタにしていく。


 サイテーなのは……どっちよ。


 心の中で叫んでも、声は外に出ない。

 もし口にしても、彼は鼻で笑って終わらせるだろう。

 その確信が、わたしをますます追い詰めた。


「はぁ?」


 精一杯の抵抗のつもりで返したけれど、声はかすれていた。

 怒りよりも、悔しさの色がにじんでしまう。


 河西はその反応に眉をピクリと動かし、ますます苛立った顔になる。

 彼の目は、わたしを見下し、値踏みするように細くすぼまっていた。


 ――どうして。

 どうしてわたしばっかり、こんなふうに見られなきゃいけないの?


 森山さんの生徒手帳を自分のものにするなんて、何の得があるのか分かんない。なのに、なぜ、河西は拾ったではなく、盗んだに結びつけようとするの!? もう気にしていないってさっき言ってたのにまた声に出そうとするし。

 転んだのだって、森山さんの不注意でしょう?

 それに対して、ひどいやつだの、河西が理不尽なことばかり言うから言い返しただけなのに。

 つい、余計なひと言も出ちゃったけど。

 それなのに、わたしだけが悪者扱いされて、サイテーだなんて⋯⋯。


 胸の奥で、度重なった理不尽さが積み上がり、怒りに変わる。

 けれど、その奥には、誰も味方してくれない寂しさも広がっていく。

 世界中で、ひとりぼっちになったみたいだった。


「あんたこそ、謝りなさいよっ」


 それでも、わたしは言葉を飲み込まなかった。

飲み込んでしまえば、本当にサイテーな女にされてしまう気がしたから。


「⋯⋯ごめんなさい」


 なぜか、森山さんが反応した。

 謝るんじゃなくて、あなたには生徒手帳のお礼を言ってほしいんだけど。

 そう声に出そうとした瞬間、苛立った河西の言葉が空気を刺す。


「利香、こいつにあやまることない。あやまる要素、何もねぇだろ。――伴野、お前の方が俺に暴言吐いてんだろ。あやまるのはお前だろーが! 俺のこと失礼なやつとか言いやがるし。失礼なのはお前だろ。いきなり利香の生徒手帳を……っ。しかも、転びそうな利香に何もしねぇ。無能だろ、お前」


 河西は、一気にまくし立てる。


 ――は? また生徒手帳のこと?

 何が、無能よ!

 どれだけ、人を傷つけるのよ。

 こっちの方が、ふざけないで、だわ!


 頭の中で、何かがプツンと切れた。

 ずっと我慢していた糸が、強引に引きちぎられたみたいに。


 わたしは彼をまっすぐ睨みつけた。

 もう、逃げない。


「さっきはこの件に関して分かったと言ってたのに、まだ盗んだって言いたいの? あんたがさ、森山さんを急かさなければ転ぶこともなかったでしょう。何度も同じこと繰り返して、何もかも、わたしのせいにして。いい加減にしてほしいわ。――あんたの方が、よっぽど最低よ!」


 声は自然に張り上がっていた。

 胸の奥に溜めこんだ怒りと屈辱が、堰を切ったようにあふれ出していく。


 ――だってそうじゃない。

 何度も同じことを繰り返して、その度に怒る。

 偶然拾っただけなのに生徒手帳を盗んだ、とか。

 行こうぜといきなり場を去った河西を、慌てて追いかけようとした森山さんが転んだら、わたしが助けないといけない、とか。

 盗んだとわたしを疑うとか、あり得ないし。数々の暴言。あげくの果てに、無能扱いしてくる。河西の人間性を疑いたくもなるわ。


「お前の方が、サイテーだろ! 早く、あやまれよ」

「最低だの、無能だの、いい加減にしてくれない!? ⋯⋯もう何度も同じことを繰り返すのやめてよ」


 吐き出した言葉は震えていた。

 怒りだけじゃない。悲しさ、寂しさ、悔しさ――すべてが混じって震えた声。


「お前が謝らないのが悪いだろ!」


 河西の顔が歪み、声が怒気を帯びる。

 でも、その言葉を聞いたとき、胸の中に妙な静けさが広がった。


 ――ああ、この人は結局、わたしを理解しようとなんてしないんだ。

 何を言っても、全部、生意気で片づける。


「何故? あんたからひどい言葉受けたわたしが、何で謝る必要あるのよっ!」


 気づけば、口が勝手に動いていた。

 声は震えていたけれど、はっきりと響いた。


 怒りと屈辱の炎が、わたしを支えていた。


 わたしが言い返すと、河西はじろりと一瞥して、深いため息をこぼした。

 その音が、まるでもう相手にする価値もないと切り捨てる合図のように聞こえて、胸の奥にズシンと重く響く。


 そして――。


「⋯⋯そうかよ。こんな強情なやつと張り合ってもウザいだけだわ。お前みたいな女を好きになる男が居たら、マジで見てぇわ。ま、絶対、男なんて出来そうもないけどな」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


 絶対、男なんて出来そうもない。

 ――なんで、そんなことまで言われなきゃいけないの?


 心臓を素手でつかまれ、握りつぶされたみたいな衝撃。

 呼吸が浅くなって、喉が詰まり、言葉が出てこない。


「あんたには言われなくない!」


 やっと絞り出した声は裏返り、みっともなく響いた。

 それでも、言わずにはいられなかった。

 黙っていたら、本当に男もできない女と烙印を押されてしまいそうで――。


「それに、あんたと話しているとイラッとくるし、ウザいから、いい加減消えてくれないかしら!」


 吐き出した瞬間、胸の奥がスッとするどころか、逆にズキンと痛んだ。

 自分で自分を追い詰めてしまったのだと、すぐに気づいた。


 ああ、またわたしったら、言わなければよかったのに。


 心のどこかでブレーキをかけようとしたのに、感情が先にあふれてしまった。

 後悔の苦さと、まだ収まらない怒りが入り混じって、胸の中でぐちゃぐちゃに渦巻いている。


 声を荒らげたわたしに反応して、部活帰りのグループが驚いて振り返る。

 その視線に気づき、ますます顔が熱くなった。

 恥ずかしい。惨め。

 でも、もう引き返せない。


 河西の言葉に傷つき、わたしの言葉にさらに自分で傷を重ねて――。

 心の中は、痛みと後悔でいっぱいだった。


「お前の方がうぜぇんだよ。はぁ⋯⋯もういいや。こんなやつ放って行こうぜ」


 ばかにしたような河西の笑い声が耳に残る。

 その音に、胸の奥がまだチリチリと焼けていた。

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