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 河西は太い眉をピクリと動かし、さらにわたしを睨みつけた。

 その目に宿っているのは怒り――いや、それ以上に、あからさまな見下しだった。


「こんな女、ほっといて帰ろうぜ」

「うん」


 森山さんは短くうなずき、わたしをまっすぐ見据えた。

 敵意はない。けれど、その瞳には切り離すと決めた確信の光が宿っていた。


「彼、わたしのことしか考えてないの。ごめんなさい」


 おっとりとした声。

 なのに、その言葉は鋭い刃のように心に突き刺さる。


 ――彼、わたしのことしか考えてないの。


 耳の奥で、彼女の声が何度もこだました。

 わたしは、無意識に繰り返してしまう。


 ……いいな。

 ……羨ましい。


 はっとした。

 ――なに考えてるのよ、わたし!


 怒りは消えていない。理不尽さも、不満も、まだ胸いっぱいに渦巻いている。

 なのに、彼女の言葉だけが甘く残り、じわじわとわたしを侵食してくる。


 羨望と怒り。ふたつがせめぎ合い、心はぐちゃぐちゃだった。


「こいつにあやまることないよ。もともとはこの女が利香の生徒手帳を――」


 な……なんですって?


 その瞬間、心の奥でプツンと何かが切れた。

 視線を上げ、真っすぐ彼をにらむ。


「まだ盗んだって言いたいの? あんたの方がよっぽど最低な男よ! それに、森山さんが転んだのだって、河西が急かせたせいじゃない! 責任転嫁しないで!」


 声は震えていた。怒り、悔しさ、悲しみ――全部が混ざり合っていた。

 でも、黙ってなんかいられなかった。


「……こ、こいつ……。すげー生意気!」


 彼の眉が引きつり、声が荒くなる。

 だけど引かない。いまのわたしには、引く理由なんて一つもない。


「その言葉、そっくりそのままお返ししてあげるわよっ!」


 胸の奥にためこんできた思いが、一気に噴き出す。

 河西はにらみ返しながらも、どこか言葉に詰まっていた。


「なっ、なんだよ。もう、言っておくが……生徒手帳のことはお前が盗んだって思ってねーよ。結構ひねくれたやつだな。利香が言ったろ、お前は悪くないって。なのに、まだ気にしてんのかよ。こえーなー」


 ……ひねくれてる? わたしが?

 そう言うあんたは、どうなのよ。


 胸の中で怒りが再び渦を巻く。

『もう盗んだなんて思ってない』と言いながら、さっきのあの言葉。

 矛盾してる。だからわたしは返したのに。


 なのに、今度は『気にするな』だなんて――。


 ――わたしがおかしいの?

 それとも、彼がおかしいの?


 噛み合わない会話が、わたしの孤独をさらに際立たせていった。


「だったら、さっき『もともとはお前が利香の生徒手帳を』なんて言わないでよ! 誤解して当然でしょ。……河西って、森山さんと仲がいいクセに、ほんと女の子の気持ちに疎いのね」


 ――しまった。

 言った瞬間、自分の失言に気づいた。最後のひと言は余計だった。

 胸の奥に、冷たい後悔がじわじわ広がる。


 河西はわたしをじっと一瞥いちべつし、面倒くさそうにため息をついた。

 その態度が、また神経を逆なでする。


「……お前、絶対、男できねーぞ。こんな女と張り合ってたら、イライラしっぱなしだしよ」


 突き刺さる言葉。

 耳の奥で反響して、呼吸が乱れる。

 まるで――お前は一生、誰からも愛されないと宣告されたみたいに。


「大きなお世話よ! あんたみたいな最低な男に彼女がいるなんて、信じられないわねっ! 森山さん、よくこんな礼儀知らずのやつとつきあってられるわよ!」


 気づけば、声を張り上げていた。

 喉がひりつく。胸の奥に積もった苛立ちと惨めさを、吐き出さずにはいられなかった。


 ――また、やってしまった。


 口にした瞬間に、もう戻せないとわかる。

 傷つけたいんじゃない。なのに、傷つける言葉ばかり選んでしまう。

 後悔が押し寄せる。でも、顔には出せなかった。


 そのとき、近くにいた女子グループがクスクス笑いながら振り返った。

 わたしたちのやり取りが、見世物になっていた。


 ――しまった。

 一瞬で頬が熱くなる。笑われている。わたしという存在そのものが、嗤われているみたいに。


 河西も視線に気づいたのか、顔をそらし、わざとらしいほど大きな声をあげた。


「……ったく。お前って、ほんっと失礼なやつだなぁー!」


 その声は周囲へのアピールにしか聞こえない。

 俺は被害者だと宣言するみたいに。

 胸の奥に、さらに怒りがこみ上げた。


「何言ってんの? その言葉、そっくりそのままお返しするわ! あんたがわたしに言った数々の暴言、もう忘れたなんて、相当頭悪いんじゃないの!?」


 言葉を吐いた瞬間、背筋がピンと張り詰めた。

 怒りに突き動かされていたけれど、内心では震えていた。

 彼と真正面からぶつかるのは怖い。けれど、黙っていたら――それは認めたことになってしまう気がして。


「……お前、ふざけんなよ」


 静かに怒っているというより、嵐の前の静けさ。怒りがピークに達する直前のような感じがした。


 怖い⋯⋯!


 河西の声が、じわじわと低く落ちてくる。

 挑発でもなく、ただ底冷えするような嫌味。

 その一言に、胸の奥がざわついた。


 ――どうして。

 どうして、こんなふうに言い合わなきゃいけないの。

 ただ、わたしが河西の言葉に、どれだけ傷ついたかわかってほしかっただけなのに。


「おい! 今すぐあやまれよ」


 河西がズイっと前に出て、わたしを射抜くように睨んできた。

 その眼光に、心臓がドクンと跳ねる。

 ほんの小さな反論すら許されない、と脅されているみたいだった。


 ――なんで?

 なんで、わたしが謝らなきゃいけないの。


 胸の奥で反発心が膨らむ。

 でも同時に、怒りに圧されて喉が詰まり、言葉が出てこない。

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