3
河西は太い眉をピクリと動かし、さらにわたしを睨みつけた。
その目に宿っているのは怒り――いや、それ以上に、あからさまな見下しだった。
「こんな女、ほっといて帰ろうぜ」
「うん」
森山さんは短くうなずき、わたしをまっすぐ見据えた。
敵意はない。けれど、その瞳には切り離すと決めた確信の光が宿っていた。
「彼、わたしのことしか考えてないの。ごめんなさい」
おっとりとした声。
なのに、その言葉は鋭い刃のように心に突き刺さる。
――彼、わたしのことしか考えてないの。
耳の奥で、彼女の声が何度もこだました。
わたしは、無意識に繰り返してしまう。
……いいな。
……羨ましい。
はっとした。
――なに考えてるのよ、わたし!
怒りは消えていない。理不尽さも、不満も、まだ胸いっぱいに渦巻いている。
なのに、彼女の言葉だけが甘く残り、じわじわとわたしを侵食してくる。
羨望と怒り。ふたつがせめぎ合い、心はぐちゃぐちゃだった。
「こいつにあやまることないよ。もともとはこの女が利香の生徒手帳を――」
な……なんですって?
その瞬間、心の奥でプツンと何かが切れた。
視線を上げ、真っすぐ彼をにらむ。
「まだ盗んだって言いたいの? あんたの方がよっぽど最低な男よ! それに、森山さんが転んだのだって、河西が急かせたせいじゃない! 責任転嫁しないで!」
声は震えていた。怒り、悔しさ、悲しみ――全部が混ざり合っていた。
でも、黙ってなんかいられなかった。
「……こ、こいつ……。すげー生意気!」
彼の眉が引きつり、声が荒くなる。
だけど引かない。いまのわたしには、引く理由なんて一つもない。
「その言葉、そっくりそのままお返ししてあげるわよっ!」
胸の奥にためこんできた思いが、一気に噴き出す。
河西はにらみ返しながらも、どこか言葉に詰まっていた。
「なっ、なんだよ。もう、言っておくが……生徒手帳のことはお前が盗んだって思ってねーよ。結構ひねくれたやつだな。利香が言ったろ、お前は悪くないって。なのに、まだ気にしてんのかよ。こえーなー」
……ひねくれてる? わたしが?
そう言うあんたは、どうなのよ。
胸の中で怒りが再び渦を巻く。
『もう盗んだなんて思ってない』と言いながら、さっきのあの言葉。
矛盾してる。だからわたしは返したのに。
なのに、今度は『気にするな』だなんて――。
――わたしがおかしいの?
それとも、彼がおかしいの?
噛み合わない会話が、わたしの孤独をさらに際立たせていった。
「だったら、さっき『もともとはお前が利香の生徒手帳を』なんて言わないでよ! 誤解して当然でしょ。……河西って、森山さんと仲がいいクセに、ほんと女の子の気持ちに疎いのね」
――しまった。
言った瞬間、自分の失言に気づいた。最後のひと言は余計だった。
胸の奥に、冷たい後悔がじわじわ広がる。
河西はわたしをじっと一瞥し、面倒くさそうにため息をついた。
その態度が、また神経を逆なでする。
「……お前、絶対、男できねーぞ。こんな女と張り合ってたら、イライラしっぱなしだしよ」
突き刺さる言葉。
耳の奥で反響して、呼吸が乱れる。
まるで――お前は一生、誰からも愛されないと宣告されたみたいに。
「大きなお世話よ! あんたみたいな最低な男に彼女がいるなんて、信じられないわねっ! 森山さん、よくこんな礼儀知らずのやつとつきあってられるわよ!」
気づけば、声を張り上げていた。
喉がひりつく。胸の奥に積もった苛立ちと惨めさを、吐き出さずにはいられなかった。
――また、やってしまった。
口にした瞬間に、もう戻せないとわかる。
傷つけたいんじゃない。なのに、傷つける言葉ばかり選んでしまう。
後悔が押し寄せる。でも、顔には出せなかった。
そのとき、近くにいた女子グループがクスクス笑いながら振り返った。
わたしたちのやり取りが、見世物になっていた。
――しまった。
一瞬で頬が熱くなる。笑われている。わたしという存在そのものが、嗤われているみたいに。
河西も視線に気づいたのか、顔をそらし、わざとらしいほど大きな声をあげた。
「……ったく。お前って、ほんっと失礼なやつだなぁー!」
その声は周囲へのアピールにしか聞こえない。
俺は被害者だと宣言するみたいに。
胸の奥に、さらに怒りがこみ上げた。
「何言ってんの? その言葉、そっくりそのままお返しするわ! あんたがわたしに言った数々の暴言、もう忘れたなんて、相当頭悪いんじゃないの!?」
言葉を吐いた瞬間、背筋がピンと張り詰めた。
怒りに突き動かされていたけれど、内心では震えていた。
彼と真正面からぶつかるのは怖い。けれど、黙っていたら――それは認めたことになってしまう気がして。
「……お前、ふざけんなよ」
静かに怒っているというより、嵐の前の静けさ。怒りがピークに達する直前のような感じがした。
怖い⋯⋯!
河西の声が、じわじわと低く落ちてくる。
挑発でもなく、ただ底冷えするような嫌味。
その一言に、胸の奥がざわついた。
――どうして。
どうして、こんなふうに言い合わなきゃいけないの。
ただ、わたしが河西の言葉に、どれだけ傷ついたかわかってほしかっただけなのに。
「おい! 今すぐあやまれよ」
河西がズイっと前に出て、わたしを射抜くように睨んできた。
その眼光に、心臓がドクンと跳ねる。
ほんの小さな反論すら許されない、と脅されているみたいだった。
――なんで?
なんで、わたしが謝らなきゃいけないの。
胸の奥で反発心が膨らむ。
でも同時に、怒りに圧されて喉が詰まり、言葉が出てこない。