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「手をどかしてよ」
「わたし、話の途中なのよ。聞いてから帰ってくれないかしら」
どこが途中なのよ? 思わず口を開きかける。
わたしはムッとした顔で森山さんをにらんだ。
「用があるなら、さっさと言って」
「伴野さんって、近くで見ると、顔がすごく日に焼けてるのね。夏はまだ先なのに、どこで焼いたの? あんまり焼きすぎると体によくないよ」
これのどこが“話の途中”なのよ。
質問の意味もわからない。ただ思ったことを口にしただけ?
「よけいなお世話よ」
吐き捨てるように言った、その直後だった。
タイミングよく河西の高笑いが響いた。
空気を切り裂くようなその声に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
なぜ――。なぜ、彼に笑われなきゃならないの?
怒りよりも先に、悲しみが広がっていく。
「どうかしたの、敏之くん」
森山さんが、心配そうに河西を覗き込む。まるでわたしなんて、そこにいないみたいに。
河西は笑いをおさめ、軽い調子で言った。
「おれの思ってたことと、利香の考えがちょっと違っててさ。笑った理由は少し別だけど」
……それだけ?
そんな理由で、あんなに笑えるの?
しかも本人の目の前で。信じられない。
胸が熱くなる。怒りと、みじめさと、そして――気づく。
わたし、ほんの少しの仕草でこの人に惹かれかけていた。笑い方や歩き方、ノートを取る手の速さ。気づけば視線を追っていた。
けれど今、その想いが音を立てて崩れていくのがわかる。
好きになるのも、嫌いになるのも。
ほんの小さなきっかけ一つ。
わたしは、この瞬間、河西を「好き」から「嫌い」に変えた。
「わたしたちが伴野さんを見て笑った理由のこと?」
「そー」
「どうして、敏之くんは笑ったの?」
森山さんのほわんとした声。
いつもなら柔らかいと感じるその口調が、今日はやけに耳障りに響く。
河西が口を開いた。
「だって、おれ、利香以外の女子なんて眼中にねぇし。伴野が同じクラスだったなんて、ほんと知らなかったからさ。あのときの笑いはさ、利香も“こんなやついたっけ?”って思ったんじゃねぇかなーって。じゃあ二人で“なんだこいつ”って笑っちまえって。それでだよ」
……は?
一瞬、言葉の意味が頭に入らなかった。
すぐに胸の奥からこみ上げる。
――なんなの、それ。
わたしに悪いなんて、一度も考えてない顔。
むしろ楽しそうに思い返してる。
ふざけないで。
「河西がわたしのこと知らなかったなんてこと、もういい!」
声が裏返る。張り裂けそうな心が勝手に叫ぶ。
「笑いたければ笑えばいいじゃない!」
河西の表情が変わる。眉をひそめ、冷たい視線を向けてきた。
「変なやつ……。もうこいつに用はねぇだろ。利香、帰ろうぜ」
――帰る?
わたしを呼び止めて、笑って、突き放して。
それだけじゃない。
生徒手帳だって、わたしが拾って返したのに――ありがとうのひと言もなし?
胸の奥で火花が散った。
パチッ、パチッ、と音が聞こえる気がする。
怒り、悔しさ、悲しみ。ぜんぶ混ざり合って爆ぜる。
けれど河西は、わたしなんか存在しないかのように、森山さんを促して歩き出した。
二人で、細い住宅街の道へ。
――置いていかれる。
いや、最初から、わたしなんていなかった。
「待ってよ、敏之くん……あっ!」
森山さんの声。直後にドサッという音。
足元のガチャ玉を踏み、派手に転んでいた。
その光景を見た瞬間、胸の奥がざわめいた。
小さく、黒い声が漏れる。
――ふん、いい気味。
だってそうでしょう?
河西の隣に立って、わたしを笑いものにするだけ。
自分のことすら自分で守れない。
そんな子だから、こうなるのよ。
……でも。
どうして?
どうして、この人たちは一度も謝らないの?
生徒手帳のことも。
笑ったことも。
わたしに向けられた視線も、言葉も。
何ひとつ、なかったことみたいに。
――絶対に、おかしい。
胸の奥で、何度も繰り返した。
「利香!」
すでにわたしと森山さんから数十メートル離れていた河西が、息を切らせて駆け戻ってきた。
尻もちをついた彼女に、ためらいもなく手を差し伸べる。
「平気か?」
「……うん」
彼が腕を引いて立たせる。その自然な仕草。
その一部始終が、胸の奥に鋭い針を刺す。
――どうして。
どうしてわたしのときは、そんなふうに気づいてくれなかったの。
次の瞬間、河西の視線がわたしに突き刺さった。
一気に空気が変わる。
「お前、利香のそばにいて手を貸してやらねーなんて……サイテーな女だな」
……え?
耳を疑った。
なぜ、わたしが責められるの?
転んだのは森山さんでしょ。
追いかけさせたのはあんたでしょ。
胸の奥で、言葉にならない叫びがぐるぐると渦を巻く。
頬の奥がかっと熱くなる。
河西の目が細く、わたしを射抜く。
見下ろすようなその視線は、わたしの存在を“価値のないもの”と決めつけているみたいだった。
頭に血がのぼる。心臓が早鐘を打つ。
「はぁ?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
怒りというより、呆れ。
そして、どうしようもない悲しみが、底の方に混ざっていた。