1
だれもいなくなった教室で、わたしは焦っていた。
ぼやける視界の中、ぞうきんがけみたいに手をすべらせる。
――早く見つけないと。もし踏まれたら、もう二度と使えない。
「なにやってんの、お前」
唐突に声が落ちてきた。
心臓が跳ねる。顔をあげても、にじむ輪郭に誰だかわからない。ただ、声から男の子だとだけはわかった。
「あっ……!」
思わず声が漏れる。気づいてほしくない。いや、それより――踏まれたら大変。
「な、なんだよ」
「ばか! そこから動かないで!」
「……コンタクトか?」
「そうよ。だからお願い、動かないで」
ククッと笑う声。
次の瞬間、黒い影がわたしの目の前にしゃがみこんでいた。近い。鼓動がうるさい。
「なによ」
「ピリピリすんな。ほら」
差し出された指先。そこに、わたしが探していた小さなレンズがぴたりと貼りついていた。
「あ……ありがとう」
胸の奥から力が抜ける。受け取った瞬間、彼は立ち上がり、背を向けた。
「じゃあな」
短い一言を残し、教室を出て行く。すぐに廊下から声がする。
「おーい、河西ー!」
……河西? 今の、河西だったの?
助けてくれたのが、あの河西?
胸の奥に、熱が走る。けれど同時に冷たさも広がる。だって、河西の隣にはいつもあの子がいる。どうして――わたしなんかに。
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空はオレンジと灰色がせめぎ合っていた。学校帰り、美由紀ちゃんと並んで歩くのは、いつものこと。
「……でね、今ちゃんに折りたたみ傘を貸したの。近所だから、家まで行ったら、その場で返されたのよ。ひどいと思わない?」
猫のキーホルダーがバッグから揺れ、鈴の音が小刻みに鳴る。
わたしは首をかしげた。
「どうして、ひどいの?」
問い返すと、美由紀ちゃんは眉を寄せる。
「だって濡れてるのよ? わたしだって傘を持ってたのに。乾かしてから返すのが普通じゃない?」
……そうかな。返してくれたんだからいいと思うけど。
彼女のむっとした横顔に、わたしは居心地の悪さを覚える。
「りょこたんだって同じ立場なら頭にくるわよ」
「うーん……わたし、今ちゃんと仲良くないし。そもそも貸さないと思う」
深いため息。冷たい視線。
――あぁ、まただ。美由紀ちゃんって、ときどきこう。わたしには理解できないことを押しつけてくる。
「……ごめんね、りょこたん」
「うん、いいよ」
謝るくらいなら、言わなければいいのに。胸の中で小さく毒づく。
空気を変えたくて、わたしは話題を投げた。
「今ちゃんのことはもういいじゃない。今日のドラマ、楽しみだよね」
その言葉に、美由紀ちゃんの顔がパッと明るくなる。
――ほんと、単純。でも、その単純さが少しうらやましい。
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交差点で別れ、一人で歩き出す。ふと耳に鈴の音が響いた。美由紀ちゃんのキーホルダーにそっくりな音。
足元に目を落とすと、赤い生徒手帳がそこにあった。
二年C組、森山利香。
顔を思い浮かべる。丸顔で、ぽっちゃりしてて……かわいい。男子に人気のある子。
拾い上げ、届けるべきか考えていると――。
「ねぇ」
背後から声。振り返ると、そこに森山さんと河西が立っていた。
「びっくりした!」
思わず声をあげる。けれど、次の瞬間。
「なに驚いてんだよ。それ、利香のだろ。返せ」
河西が怒気をはらんで言い放ち、わたしの手から生徒手帳を乱暴に奪った。
「な、なによ……」
胸がざわつく。信じられない。彼の顔は仁王立ちみたいに強張り、鋭い視線がわたしを突き刺した。
「お前が盗んだんだろ。朝から探してたんだ。こんなとこでこそこそして……言い訳するなよ。あやまれ」
――盗んだ? 拾っただけなのに?
喉の奥がカラカラになる。言葉が出ない。けれど、怒りは後から押し寄せてきた。
「ひどいこと言うわね。ここに落ちてたのを拾っただけよ。届けようと思ってたのに!」
「ほんとかよ? 俺たちが来たから慌ててそう言ってるんじゃないのか」
疑う目。
……信じてくれない。どうして?
「お前って、落ちてた物を自分のにしちゃうタイプなんだな」
嘲りを浮かべる唇。
胸がぎゅっと縮む。悔しい。悔しいのに――視線をそらせなかった。
短髪の黒。角張った顔。細い目。学ランの下の白シャツ。
……いやだ。どうして、こんなときに見とれてるの、わたし。
「早くあやまれよ」
現実に引き戻される。怒りと羞恥が一気に噴き出す。
「あのね! 拾ってくれた人みんなを泥棒扱いするつもり? 礼儀知らずもいいとこよ!」
声を張り上げ、森山さんに視線を向ける。
「あなたも何か言ってよ!」
森山さんは、ゆるやかに首を振った。
「敏之くん。彼女、悪くないと思うわ」
その調子はあまりにも淡々としていて、かえって胸に突き刺さる。
「そうか。じゃあいい」
河西があっさり引く。その気安さが、またわたしを傷つけた。
「そういえばお前、利香のこと知ってんのか?」
突然の問い。わたしが答えるより先に、森山さんが笑いながら口を開く。
「同じクラスじゃない。……あ、ごめん、名前なんだっけ?」
息が詰まった。二ヶ月も同じ教室で過ごしているのに。
――わたしって、そんなに印象が薄いの?
「……伴野良子よ」
やっとの思いで答える。
「伴野? あー、いたっけ?」
河西の無関心な声。胸にざらりとした痛みが広がる。
助けてくれたのは幻だったの? 本当は最初から、わたしなんて視界に入ってなかったの?
二人が笑い合う。わたしの存在を、軽々と置き去りにして。
拳を握る。悔しい。惨め。
「あらそう。わたしもあなたのこと印象なかったわ。生徒手帳も渡したし、もう帰る」
吐き捨てて背を向けた。けれど。
「待って」
森山さんが一歩前に出て、わたしの進路をふさいだ。