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 だれもいなくなった教室で、わたしは焦っていた。

 ぼやける視界の中、ぞうきんがけみたいに手をすべらせる。

 ――早く見つけないと。もし踏まれたら、もう二度と使えない。


「なにやってんの、お前」


 唐突に声が落ちてきた。

 心臓が跳ねる。顔をあげても、にじむ輪郭に誰だかわからない。ただ、声から男の子だとだけはわかった。


「あっ……!」


 思わず声が漏れる。気づいてほしくない。いや、それより――踏まれたら大変。


「な、なんだよ」

「ばか! そこから動かないで!」

「……コンタクトか?」

「そうよ。だからお願い、動かないで」


 ククッと笑う声。

 次の瞬間、黒い影がわたしの目の前にしゃがみこんでいた。近い。鼓動がうるさい。


「なによ」

「ピリピリすんな。ほら」


 差し出された指先。そこに、わたしが探していた小さなレンズがぴたりと貼りついていた。


「あ……ありがとう」


 胸の奥から力が抜ける。受け取った瞬間、彼は立ち上がり、背を向けた。


「じゃあな」


 短い一言を残し、教室を出て行く。すぐに廊下から声がする。


「おーい、河西かさいー!」


 ……河西? 今の、河西だったの?

 助けてくれたのが、あの河西?


 胸の奥に、熱が走る。けれど同時に冷たさも広がる。だって、河西の隣にはいつもあの子がいる。どうして――わたしなんかに。



---


 空はオレンジと灰色がせめぎ合っていた。学校帰り、美由紀みゆきちゃんと並んで歩くのは、いつものこと。


「……でね、いまちゃんに折りたたみ傘を貸したの。近所だから、家まで行ったら、その場で返されたのよ。ひどいと思わない?」


 猫のキーホルダーがバッグから揺れ、鈴の音が小刻みに鳴る。

 わたしは首をかしげた。


「どうして、ひどいの?」


 問い返すと、美由紀ちゃんは眉を寄せる。


「だって濡れてるのよ? わたしだって傘を持ってたのに。乾かしてから返すのが普通じゃない?」


 ……そうかな。返してくれたんだからいいと思うけど。

 彼女のむっとした横顔に、わたしは居心地の悪さを覚える。


「りょこたんだって同じ立場なら頭にくるわよ」

「うーん……わたし、今ちゃんと仲良くないし。そもそも貸さないと思う」


 深いため息。冷たい視線。

 ――あぁ、まただ。美由紀ちゃんって、ときどきこう。わたしには理解できないことを押しつけてくる。


「……ごめんね、りょこたん」

「うん、いいよ」


 謝るくらいなら、言わなければいいのに。胸の中で小さく毒づく。

 空気を変えたくて、わたしは話題を投げた。


「今ちゃんのことはもういいじゃない。今日のドラマ、楽しみだよね」


 その言葉に、美由紀ちゃんの顔がパッと明るくなる。

 ――ほんと、単純。でも、その単純さが少しうらやましい。



---


 交差点で別れ、一人で歩き出す。ふと耳に鈴の音が響いた。美由紀ちゃんのキーホルダーにそっくりな音。

 足元に目を落とすと、赤い生徒手帳がそこにあった。


 二年C組、森山もりやま利香りか

 顔を思い浮かべる。丸顔で、ぽっちゃりしてて……かわいい。男子に人気のある子。


 拾い上げ、届けるべきか考えていると――。


「ねぇ」


 背後から声。振り返ると、そこに森山さんと河西が立っていた。


「びっくりした!」


 思わず声をあげる。けれど、次の瞬間。


「なに驚いてんだよ。それ、利香のだろ。返せ」


 河西が怒気をはらんで言い放ち、わたしの手から生徒手帳を乱暴に奪った。


「な、なによ……」


 胸がざわつく。信じられない。彼の顔は仁王立ちみたいに強張り、鋭い視線がわたしを突き刺した。


「お前が盗んだんだろ。朝から探してたんだ。こんなとこでこそこそして……言い訳するなよ。あやまれ」


 ――盗んだ? 拾っただけなのに?

 喉の奥がカラカラになる。言葉が出ない。けれど、怒りは後から押し寄せてきた。


「ひどいこと言うわね。ここに落ちてたのを拾っただけよ。届けようと思ってたのに!」

「ほんとかよ? 俺たちが来たから慌ててそう言ってるんじゃないのか」


 疑う目。

 ……信じてくれない。どうして?


「お前って、落ちてた物を自分のにしちゃうタイプなんだな」


 嘲りを浮かべる唇。

 胸がぎゅっと縮む。悔しい。悔しいのに――視線をそらせなかった。


 短髪の黒。角張った顔。細い目。学ランの下の白シャツ。

 ……いやだ。どうして、こんなときに見とれてるの、わたし。


「早くあやまれよ」


 現実に引き戻される。怒りと羞恥が一気に噴き出す。


「あのね! 拾ってくれた人みんなを泥棒扱いするつもり? 礼儀知らずもいいとこよ!」


 声を張り上げ、森山さんに視線を向ける。


「あなたも何か言ってよ!」


 森山さんは、ゆるやかに首を振った。


敏之としゆきくん。彼女、悪くないと思うわ」


 その調子はあまりにも淡々としていて、かえって胸に突き刺さる。


「そうか。じゃあいい」


 河西があっさり引く。その気安さが、またわたしを傷つけた。


「そういえばお前、利香のこと知ってんのか?」


 突然の問い。わたしが答えるより先に、森山さんが笑いながら口を開く。


「同じクラスじゃない。……あ、ごめん、名前なんだっけ?」


 息が詰まった。二ヶ月も同じ教室で過ごしているのに。

 ――わたしって、そんなに印象が薄いの?


「……伴野ばんの良子りょうこよ」


 やっとの思いで答える。


「伴野? あー、いたっけ?」


 河西の無関心な声。胸にざらりとした痛みが広がる。

 助けてくれたのは幻だったの? 本当は最初から、わたしなんて視界に入ってなかったの?


 二人が笑い合う。わたしの存在を、軽々と置き去りにして。

 拳を握る。悔しい。惨め。


「あらそう。わたしもあなたのこと印象なかったわ。生徒手帳も渡したし、もう帰る」


 吐き捨てて背を向けた。けれど。


「待って」


 森山さんが一歩前に出て、わたしの進路をふさいだ。

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