第3話:北医寮の男
「……ここが、北医寮?」
朝の冷たい風に揺れる杉の葉。王宮の裏手、薄暗い石畳の道を抜けた先にその建物はあった。
装飾の一切ない、無骨な平屋。
だが、後宮で起こる“病”や“毒”はすべてこの北医寮に集められる。ある意味、ここは後宮の“死”を管理する場所でもあった。
芙蓉は、布袋に包んだ香炉と甘露湯の茶碗を抱えて、門をくぐった。
「……下女がここへ? 面倒事は遠慮したいのだが」
そう言って書物の山の向こうから現れたのは、一人の男だった。
年のころ三十前後。着古した濃紺の医服、ぼさぼさの髪。白衣は煎じ薬のしみで茶色く染まり、寝起きのような目で芙蓉を見た。
「おまえ、名は?」
「芙蓉と申します。辺境の薬師の娘で……あの、蓮妃様の香炉の件で呼ばれたと」
「ふん。なら、あれはおまえが見抜いたと?」
彼は興味なさそうに言いながらも、芙蓉が差し出した香炉と薬壺にすばやく目を走らせた。
「──悪くない推察だ。偽蓮香、確かに合っている。だが、おまえ……王命もないままに香炉を持ち出したのか?」
「……はい。ですが、それ以外に方法が……」
「次はしないことだ。命に関わる」
男は香炉を手に取ると、ひと息、深く香りを吸った。
その動作が、まるで“品酒”のように美しかった。
「北医寮・主医、衛だ。まあ名乗るまでもない下役だがな」
「衛……様」
「様は要らん。ただ……」
彼は一瞬、芙蓉を見据える。先ほどまでの無気力さとは打って変わって、鋭い眼光が走った。
「きみ、“呪詛の系譜”って聞いたことあるか?」
「……呪詛?」
「知らないならいい。忘れろ。ただし、“蓮妃の件”も、“甘露湯”の件も、ただの事故ではない。きみの言う通りだ」
芙蓉は息をのんだ。
──やはり、何かがある。
だが彼はそれ以上語らず、すぐに香炉を薬籠にしまってしまった。
「きみは香りに鼻が利くらしい。だが、それがいつまで保つかはわからん」
「……どういうことです?」
衛は棚から何かを取り出した。それは一片の乾いた葉。まるで枯れた椿の葉のように見えた。
「これは“伏香草”。香を焚いても匂いを残さず、ただ周囲の香りを“変質”させる。今、後宮で流行っているらしい」
「香りを……変質?」
「つまり、“無毒な香”も“毒”にできる。逆もまた然り。毒殺に香を使う者は、今、香そのものを変えている」
芙蓉の背に、冷たいものが走った。
それはつまり、後宮の香炉、洗濯物、女官の衣──あらゆる場所で毒が仕込まれている可能性があるということ。
「警告する。これ以上深入りするな。王命を待て。下女が首を突っ込む領分ではない」
「……ですが」
「言葉の意味がわからないなら、先に死ぬぞ」
冷たく突き放されて、それでも芙蓉は目を逸らさなかった。
──あのとき、蓮妃の部屋に残された、あの微かな香り。
──甘露湯に混ぜられていた、見落としそうな草の成分。
これらすべてが“偶然”のはずがない。
「私は……薬師です。知った以上、放っておけません」
衛は肩をすくめ、無言のまま机に戻った。
だが、背を向けるその口元が、わずかに笑った気がした。
寮を出て数歩歩いたところで、芙蓉はふと立ち止まる。
風に乗って、どこかからか微かな香が漂ってきた。
甘く、どこか金属のような……懐かしいような匂い。
──それは、祖父が「絶対に近づくな」と言った毒草の香りだった。
(なんで、こんなところで……?)
その場に立ちすくむ芙蓉。
そして、その背後で、小さな衣の影が音もなく引いていった。
彼女はまだ知らなかった。次に倒れるのが「誰か」ではなく──
「彼女自身」になる可能性があるということを。