第2話:甘露湯と苦い真実
洗濯場の隅に、小さな木椅子を置き、芙蓉は黙々と茶葉を煮出していた。
(まったく……香炉の片づけなんて誰がやるかよ)
昨日、蓮妃の部屋から密かに持ち出した香炉。その中に残っていた香灰の分析が今の“作業”だった。
祖父仕込みの方法で、灰を数種の薬液に混ぜ、反応を調べる。火で乾かし、匂いを嗅ぎ、残渣を確認する。
草の名、根の質、木片の燃え方──それらの組み合わせが毒か否かを教えてくれる。
(間違いない。これは“偽蓮香”。青蓮香の名を騙った鎮静毒だ)
それは胎児の心拍を落とし、数時間のうちに流産を誘発する。
民間では密かに使われるが、王宮でそれを焚くなど正気の沙汰ではない。
では、なぜ? 誰が?
「芙蓉、いた! ちょっと来て!」
同じく洗濯場の下女・小桃が慌てた顔で走ってくる。
「また、倒れた人が……あの、白楊の間で!」
(白楊……って、先月入ったばかりの妃の控え部屋?)
言葉の先を聞かず、芙蓉は腰を上げた。肌寒い朝の空気に、嫌な予感が混じっていた。
白楊の間は日当たりの悪い北棟にあり、まだ装飾も揃っていない新設の控え間である。
部屋の中では、女官の一人が抱き起こされた状態で寝台に横たわっていた。
「……おえっ、ううっ」
胃液を吐き切ったのか、肩だけが痙攣している。
「これは……」
芙蓉は床に落ちた茶碗の破片に目を留める。淡い琥珀色の液体──
「これは、甘露湯?」
「ええ、昨日の夜から不眠気味で、侍女が持ってきたと……」
周囲の女官が口々に言う。
甘露湯──不眠に効くとされる後宮御用達の漢方で、麦門冬や地黄が使われる。
だが、芙蓉は茶碗の中の香りに、強い違和感を抱いた。
(……これは、違う)
よく嗅げば、微かに酸敗した匂い。おそらく保存時に不適切な成分が混ざったか、あるいは──
(意図的に別のものが混ぜられた?)
「もし、余っていた甘露湯があれば、もらえますか」
「え……? まだ壺に少し……」
すぐに陶器の薬壺が差し出される。
芙蓉は指先を突っ込み、微量を唇に乗せ、舌で転がす。
──ぴり。
(……山椒? いや、違う。これ、“小伽羅こうきゃら”が入ってる!)
それは、身体を温める香草だが、他の薬と混ぜると“強制排出”の作用を起こすことがある。
本来なら不眠薬に混ぜるはずがない。
しかも、量が微妙。事故か、それとも誰かが混ぜたか。
「ごめん、小桃。この壺、保管庫に持っていって。誰が調合したか、調べたい」
「え、あんた医官でもなんでも……」
「いいから!」
珍しく芙蓉が声を荒げたので、小桃は目を見開き、頷いた。
その日の夜、芙蓉はまた洗い場に戻っていた。静かに草木を煮詰めながら、今日のことを反芻する。
香炉の毒と、甘露湯の異変──一見、別件だが、なぜか同じ“香”の気配がある。
どちらも、“睡眠”に関わっている。どちらも、“静かに体を蝕む”。
(偶然にしては、重なりすぎる)
もしこの二つの出来事が繋がっているとしたら……?
ふと、背後に気配を感じて振り向くと、月明かりの下に宦官が立っていた。
「おまえが、芙蓉か」
「……はい?」
「後宮典医より通達がある。明朝、北医寮に出頭せよ」
「……は?」
「“おまえがあの毒に気づいたそうだな”。それについて話を聞きたいと仰せだ」
その時、芙蓉はまだ知らなかった。
この日から彼女が“ただの下女”ではいられなくなることを。
そしてこの事件の背後に、「先帝の遺妃たちの怨念」と「後宮に封じられた毒の系譜」が絡んでいることも。
命より重い秘密が、香と薬の奥に、静かに眠っていた──。




