第19話:香の奥、闇の底
夜の帳が下り、後宮の灯が一つ、また一つと消えていく。
芙蓉は寝間着にも着替えず、薬館の帳台に広げた帳面を睨んでいた。指先には墨が乾いてひび割れ、視界は冴えているのに、脳裏は重たく霞んでいた。
(——香調帳。王太后の部屋に届けられた調合には、まだ奇妙な点がある)
火折草の件は、氷山の一角に過ぎない。調合表には、通常では禁忌とされる混合例が、いくつも記録されていた。
「これは……“酔花散”……?」
思わず息をのむ。常用すれば神経を蝕み、記憶に混乱を生じさせる香。かつて亡国の王が妃たちに用いたという、伝説に近い毒香。
それがなぜ、王太后の間に?
(——誰かが、“記憶を乱したかった”?)
翌朝、芙蓉は王太后の元を訪れた。
案内役の尚官が目を伏せる。昨夜から王太后は体調を崩し、誰も謁見を許されていないという。
だが芙蓉は強引に帳面を掲げた。
「これは、命に関わる件です。お耳を貸していただかないと、王太后様が危うい」
驚いた尚官がためらう隙に、蓮生が後ろから囁く。
「……入り口を別に確保しました。急ぎましょう」
二人は裏口から屋内に滑り込み、寝所に向かった。
王太后は蒼白な顔色で横たわっていた。
だが芙蓉が近づくと、その目が静かに開く。
「来たか。……毒見女」
「いえ、今は“真実見女”でございます」
芙蓉は帳面を差し出した。
「火折草の香——それだけではありません。酔花散も、香に混ぜられていました」
王太后の目が、かすかに動く。
「私が……記憶を……?」
「はい。あの香は、人の判断を鈍らせます。おそらく、玉璽の所在、もしくは後宮の人事に関わる重大な“判断”を、誘導するために」
蓮生が続ける。
「使用時期の記録と、南医寮からの搬入時期が一致しています。出入りした者の名簿も、すでに確保済みです」
王太后が静かに、目を閉じた。
「……その中に、“楊”という者はいたか」
芙蓉が名簿を指差す。
「“楊麗仙”。香師見習いとして、南医寮に一時勤務していた者です」
「——それで、すべて辻褄が合うな」
その名を口にした瞬間、王太后の声に微かな震えが走った。
「彼女は、かつて私の侍女であり、最も信頼した女……だが、数年前に失脚した。なぜ戻ってきたのか……わからぬ」
芙蓉は一歩、踏み出した。
「彼女は、“玉璽を再び操れる人”を作ろうとしたのです。王太后様がすでに不要になったと見なされれば、次の“傀儡”を作ればいい」
「…………」
王太后は一息、長く深いため息を漏らした。
「それも、私が選んだ者か」
香の調合表が動かぬ証拠となり、楊麗仙は正式に拘束された。
彼女の口から、後宮の力の空白に乗じて一儲けを狙った一派の存在が明らかになる。香の調合による“誘導政治”——それは毒と紙一重の危うさだった。
数日後、芙蓉は久々に薬館の裏庭で陽を浴びていた。
「……やっと、終わったんですね」
蓮生が隣に腰を下ろす。
「終わったと思いますか?」
「え?」
「こういうのは、終わりませんよ。ただの“香の事件”じゃなくて、あれは“記憶と判断”を奪う戦争でした」
芙蓉はふっと笑う。
「……でも私は、香を信じたいんです」
「毒の匂いよりも、誰かを癒す香の力?」
「ええ。香も薬も、使う人次第。なら私は、善く使う側でいたいです」
風が吹き抜ける。
その香りは、春の残り香だった。