第18話:毒見と遺言
雨が降っていた。
乾いた石畳を、しっとりと濡らしていく静かな雨。薬館の庇の下、芙蓉は黙って雨音を聞いていた。
思えばこの二十日ばかり、毒と謎と人の業に、毎日まみれていたような気がする。
「——それでも、ここまで来た」
呟いた声に、隣の蓮生が首をかしげた。
「何か言いましたか?」
「……いいえ。ただの独り言です」
芙蓉は微笑んだ。だがその笑みにも、隠しきれない疲れが滲む。
それでも立ち止まるわけにはいかない。今夜、すべてが決まるのだから。
その夜、御膳の毒見役として芙蓉は宮中に呼び出された。
王太后の食事に、密かに混ぜられた毒——それが明らかになったのは、ほんの三日前のことだった。
犯人はまだ分からない。だが芙蓉には確信があった。
(香に混ぜられた“火折草”の成分。そして先に死んだ女官の口の中に残された苦味。……あれは、偶然じゃない)
蓮生が隣で静かに耳打ちする。
「御膳に毒が仕込まれていると分かっていて、向かうんですね」
「ええ。いざというときは、私が飲みますから」
「……それを言うなら、いざというときは俺の役目では?」
芙蓉は肩をすくめた。
「あなたは役目に忠実過ぎる。私は自分の判断で動きたいだけです」
御膳の前に座り、芙蓉は静かに箸を取った。
一つ、二つ。何気ない動作で香の回りを確認する。
「……やはり」
芙蓉はそっと、器の下に隠された小包を指差した。
「この香袋、表に出ていない調合です。どうやって手に入れたのか……問いただしたいところですね」
王太后は顔色一つ変えず、芙蓉に問い返した。
「そなた、毒見役の分際で、上の者に物申すのか?」
「いいえ。毒見役だからこそ、命に関わることには口を出すのです」
静かな対話に、周囲がざわめいた。
「蓮生さん、例の帳簿を」
呼びかけに、蓮生が一冊の帳簿を広げる。
それは南医寮の香調管理帳——本来、外部に出るはずのない調合が抜き出され、王太后の部屋に届けられていた記録が残っていた。
「これが動かぬ証拠です」
部屋に戻った芙蓉に、ひとつの文が届いた。
差出人は、亡くなった女官・杏李の名——。
『——もし、私に何かあったときは。あの香がすべての鍵です。王太后様には申し訳ないが、どうか、芙蓉殿。あなたが真実を見つけてください』
その文は、三日前に彼女が自ら託したものだと判明した。
「……最初から気づいていたのね」
芙蓉の手が震えた。
涙が頬を伝う。
その涙は、罪に報いるためのものではない。過ちを正すための、未来へ繋がる涙だった。
その夜、芙蓉はまた夢を見る。
母の面影、薬草の香り、そして小さな手を握る自分。
——香は、隠すために使うのではない。
——生きるために使うもの。
「……うん、そうだよね」
目を覚ました芙蓉の瞳は、もう迷っていなかった。