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第17話:香炉の記憶

書庫の奥に置かれた調香道具は、ひとつひとつが丁寧に布で包まれていた。

 芙蓉は白手袋を嵌め、息を詰めるようにして“香炉”の封を解いた。


 


 ──蒼珠妃が、かつて使っていたもの。


 


 香炉の内には、わずかに焦げた香灰が残っている。

 底には、細かな焼け跡。断片的に付着した“香材の粉末”。


 


 「……黄檀、白檀、それと──」


 


 指先で丁寧にこすりとり、調香表と照らし合わせる。

 芙蓉の目が、あるひとつの香材で止まった。


 


 「“蘭焔らんえん”。……これも、記憶を閉じる香材」


 


 蘭焔は極めて稀少で、王宮内では限られた者しか扱えない。

 しかも、正式な帳面には記録がない。


 


 ──私用の調香。誰か、あるいは“自分の記憶”に焚いたもの。


 


 芙蓉は、香炉を手に持ち、灰の匂いを確かめる。

 その瞬間、鼻先をかすめた香りが、記憶を揺らした。


 


 幼いころ、夜に迷い込んだ庭。

 闇のなか、ひとりで泣いていた時──誰かが抱き寄せ、与えてくれた香。


 


 ──この香りだ。


 


 目を閉じる。


 記憶が、ほんの少しだけ、芙蓉の中でほどけた。




 「香炉の底に、刻印がありました。……“苑”の字が彫られていたのです」


 


 夕刻、芙蓉は内密に澄春へ報告する。


 


 「“苑”。それは……蒼珠妃の、幼名……?」


 


 「おそらく。蒼珠妃が“妃”となる以前、北院の香房で学んでいた記録が……破棄された帳簿の裏から見つかりました」


 


 澄春の目が、かすかに見開かれる。


 


 「それは……皇子との婚儀が決まる前か?」


 


 「はい。おそらく“記憶”を閉じ、過去を封じるために香が使われた」


 


 芙蓉は思う。

 香を焚いたのは蒼珠妃自身か、それとも──誰か、もっと強い意志を持つ者か。


 


 (香で“自分”を隠すということは……誰かのために、“なかったこと”にされたのかもしれない)


 


 記録を抹消され、記憶を香で塗り潰され、それでも残った香炉。

 それは、唯一の証。


 


 その夜、芙蓉はこっそりと、香を焚いた。


 香材は、香炉に残っていた配合に限りなく近いもの。

 あの夜の記憶を、再現するため。


 


 香は静かに、青白い煙を立ちのぼらせる。

 懐かしさと、少しの胸苦しさ。


 


 ──あの庭。

 ──花の散る音。

 ──そして……少女の声。


 


 「泣いてると、香の神さまが来るよ。……秘密の香、教えてあげようか?」


 


 (……あの声は)


 


 芙蓉の手が、思わず香炉に触れた瞬間──はじけるように、記憶が戻る。


 


 小さな香房の奥で、芙蓉は少女と向かい合っていた。

 年は一つか二つ上。だが、妙に落ち着いた瞳の少女。


 


 「この香はね、“忘れるため”じゃないの。……“守るため”に焚くのよ」


 


 その言葉を残して、少女は笑った。


 


 ──蒼珠妃。


 


 香の記憶の中で、芙蓉は確かに“あの少女”と会っていた。

 蒼珠妃は、芙蓉を見つけ、泣いていた彼女に香を分け与えた。


 


 (けれどなぜ……あの人は、その記憶を……私との関係を、封じたの?)


 


 蒼珠妃は、芙蓉を“知っていた”。

 芙蓉もまた、彼女を“忘れていた”。


 


 香が封じたのは、事件の記憶だけではない。

 ──絆の記憶すらも。




 夜明け前、芙蓉は焚き終わった香炉を布に包み、そっと手元に置いた。


 


 「思い出してしまった、のですね」


 


 背後から声がする。

 蒼珠妃だった。月明かりの下、静かに立っていた。


 


 「……あの夜、あなたが私に香をくれたのですか?」


 


 問いかけは静かに、しかし鋭く。


 


 蒼珠妃は微笑むだけだった。

 否定も、肯定もせず──


 


 ただ、月明かりのなかで、かすかに言った。


 


 「香は、時に記憶を守り、時に人を欺く。

 でも、あなたのような人がいれば……私の嘘も、もう少しでほどけてしまいそう」


 


 その一言を残し、蒼珠妃は夜の帳のなかへ、音もなく姿を消した。

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