表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/38

第16話:記憶を閉じる香

 華やかな衣擦れの音が、静かな空間に舞った。


 芙蓉は伏せ目がちに膝をつく。

 その正面には、柔らかな色彩をまとった女が、ゆったりと香を焚いていた。

 


 ──蒼珠妃。


 香炉からは、うっすらと青みを帯びた煙が昇っている。

 その香は穏やかで、けれどもどこか……懐かしさを誘う。

 


 「良い香りだと思いませんか、芙蓉殿。……“故郷を偲ぶ香”、と名付けておりますの」

 


 柔らかな声音。

 だがその裏に、芙蓉は見えない刃を感じた。


 


 「恐れながら。調香の組成が珍しく……“迦羅葉”を含んでおいでですね」


 


 その言葉に、蒼珠妃の指が、扇の端でわずかに動く。


 「ご存知でしたか。これは父が仕立てた香に似せたもの。

 ただの模倣では面白くないので、記憶を和らげる香を少し加えましたのよ。……人の哀しみを、そっと包むように」


 「あるいは、“記憶を封じるため”にも、用いられます」


 芙蓉の声音に、わずかな硬さが混じった。


 ──蒼珠妃は、知っている。


 香が記憶を閉じること。

 香で人の心を操ること。


 「宴の夜に焚かれていた香と、非常によく似ております。

 同じ香庫に保管されていた香材の構成、調合の温度も──」


 「証拠がございますの?」


 蒼珠妃の声は静かだった。だが、笑みは動かない。


 「記録は、ございます。

 香帳の消えた一行を、墨の薄さと紙質で再現いたしました」


 芙蓉が差し出したのは、再現された“改竄前の帳面”。

 その紙の隅に、ほのかに浮かぶ文字──《蒼珠妃》。


 「なるほど。……鋭い鼻をお持ちで」


 蒼珠妃は笑った。

 だがその瞳には、寂しげな翳りがよぎったようにも見えた。


 「では、あなたはこうお考えかしら。

 私が香を使い、宴の混乱を演出し、女官を一人……“落とした”と」


 芙蓉は黙して頷いた。

 沈黙のうちに、肯定は強く響く。 


 「だったら、なぜ……私はあなたを“そばに置く”のでしょうね」


 その問いに、芙蓉の瞳がわずかに揺れる。


 「敵を傍に置くほうが、安全だとお考えなのか……あるいは、私に何かを見せたいのか」


 「“香は嘘をつかない”と、あなたは信じていらっしゃるのでしょう?

 ならば、私の香をどうぞ解いてごらんなさいな」

 

 蒼珠妃は、香炉に指先で触れ、ほんのひと匙、香粉を芙蓉へ差し出す。


 「それで、“私の過去”を暴けるのなら」

 

 挑発とも、願望ともとれる言葉。

 その香は、確かに──“記憶を閉じる香”。


 芙蓉が香を鼻先に寄せた瞬間、世界がかすかに揺れた。


 視界に過るのは、見知らぬ庭。

 花の散る音。幼い声。──そして、炎。

 

 (……これは……?)

 

 香の記憶に、芙蓉自身の記憶が混ざっている。

 いや、“混ざった”のではない。──元から、同じ香だった?


 「……蒼珠妃。

 あなたは……昔、北院にいたことが?」 


 その問いに、蒼珠妃は扇を閉じ、かすかに微笑んだ。 


 「北院? まあ、懐かしい響き……」 


 ──答えなかった。だが、否定もしなかった。


 香帳には載らない“私的な調香”がある。

 王命ではなく、記憶だけに残された香。


 蒼珠妃はかつて、芙蓉と同じ調香の場にいたのか。

 それとも、別の誰かと香の記憶を共有していたのか──。


 (香が封じたのは、妃の記憶だけではない) 


 芙蓉の胸奥に、言い知れぬざわめきが灯る。 


 それは、忘れていた香。

 幼い日、誰かと分かち合った、幻の香。


 香は、記憶の鍵。

 それを解くたびに、自分自身もまた──ほどけていく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ