第16話:記憶を閉じる香
華やかな衣擦れの音が、静かな空間に舞った。
芙蓉は伏せ目がちに膝をつく。
その正面には、柔らかな色彩をまとった女が、ゆったりと香を焚いていた。
──蒼珠妃。
香炉からは、うっすらと青みを帯びた煙が昇っている。
その香は穏やかで、けれどもどこか……懐かしさを誘う。
「良い香りだと思いませんか、芙蓉殿。……“故郷を偲ぶ香”、と名付けておりますの」
柔らかな声音。
だがその裏に、芙蓉は見えない刃を感じた。
「恐れながら。調香の組成が珍しく……“迦羅葉”を含んでおいでですね」
その言葉に、蒼珠妃の指が、扇の端でわずかに動く。
「ご存知でしたか。これは父が仕立てた香に似せたもの。
ただの模倣では面白くないので、記憶を和らげる香を少し加えましたのよ。……人の哀しみを、そっと包むように」
「あるいは、“記憶を封じるため”にも、用いられます」
芙蓉の声音に、わずかな硬さが混じった。
──蒼珠妃は、知っている。
香が記憶を閉じること。
香で人の心を操ること。
「宴の夜に焚かれていた香と、非常によく似ております。
同じ香庫に保管されていた香材の構成、調合の温度も──」
「証拠がございますの?」
蒼珠妃の声は静かだった。だが、笑みは動かない。
「記録は、ございます。
香帳の消えた一行を、墨の薄さと紙質で再現いたしました」
芙蓉が差し出したのは、再現された“改竄前の帳面”。
その紙の隅に、ほのかに浮かぶ文字──《蒼珠妃》。
「なるほど。……鋭い鼻をお持ちで」
蒼珠妃は笑った。
だがその瞳には、寂しげな翳りがよぎったようにも見えた。
「では、あなたはこうお考えかしら。
私が香を使い、宴の混乱を演出し、女官を一人……“落とした”と」
芙蓉は黙して頷いた。
沈黙のうちに、肯定は強く響く。
「だったら、なぜ……私はあなたを“そばに置く”のでしょうね」
その問いに、芙蓉の瞳がわずかに揺れる。
「敵を傍に置くほうが、安全だとお考えなのか……あるいは、私に何かを見せたいのか」
「“香は嘘をつかない”と、あなたは信じていらっしゃるのでしょう?
ならば、私の香をどうぞ解いてごらんなさいな」
蒼珠妃は、香炉に指先で触れ、ほんのひと匙、香粉を芙蓉へ差し出す。
「それで、“私の過去”を暴けるのなら」
挑発とも、願望ともとれる言葉。
その香は、確かに──“記憶を閉じる香”。
芙蓉が香を鼻先に寄せた瞬間、世界がかすかに揺れた。
視界に過るのは、見知らぬ庭。
花の散る音。幼い声。──そして、炎。
(……これは……?)
香の記憶に、芙蓉自身の記憶が混ざっている。
いや、“混ざった”のではない。──元から、同じ香だった?
「……蒼珠妃。
あなたは……昔、北院にいたことが?」
その問いに、蒼珠妃は扇を閉じ、かすかに微笑んだ。
「北院? まあ、懐かしい響き……」
──答えなかった。だが、否定もしなかった。
香帳には載らない“私的な調香”がある。
王命ではなく、記憶だけに残された香。
蒼珠妃はかつて、芙蓉と同じ調香の場にいたのか。
それとも、別の誰かと香の記憶を共有していたのか──。
(香が封じたのは、妃の記憶だけではない)
芙蓉の胸奥に、言い知れぬざわめきが灯る。
それは、忘れていた香。
幼い日、誰かと分かち合った、幻の香。
香は、記憶の鍵。
それを解くたびに、自分自身もまた──ほどけていく。