第10話:揺れる香煙
夜の帳が宮廷を覆い尽くす頃、芙蓉は静かに香炉の前に座っていた。
淡く立ち上る沈香の煙が、部屋の隅々まで満たしていく。
(香は嘘を包み隠し、真実を覆う。だが、その煙の奥には、必ず“揺らぎ”がある)
その“揺らぎ”を見逃してはならない――芙蓉はそう自分に言い聞かせた。
翌朝、宮廷内に緊張が走った。
蘭妃の側室のひとりが突如倒れたのだ。
その症状は、これまでとは異なる。呼吸困難と激しい痙攣──
「まさか……新たな香毒か?」
医官たちの間に動揺が広がる。
芙蓉はすぐに現場へ向かった。
倒れた側室の部屋は、香の強い残り香に満ちていた。
だが、以前のような強烈な香毒の痕跡はなかった。
代わりに、部屋の隅に小さな香炉が二つ置かれていた。
一つは沈香を焚くためのもの。
もう一つは、まったく新しい調合の香が入っていた。
芙蓉はその香を採取し、急ぎ北医寮へ戻った。
分析の結果、その香は“幻惑香”と判明した。
幻惑香は、心の動揺を引き起こし、正常な判断を狂わせる香。
(これを使えば、被害者は自らの意志を見失い、己の命を危険に晒すこともある)
事件の裏に潜む黒幕の狡猾さを、芙蓉は改めて思い知らされた。
その晩、芙蓉は密かに宴の参加者を調べ始めた。
香を扱える者は限られている。
“銀の爪”の女官以外にも、調香に関与した者がいるはずだ。
その目を光らせる芙蓉の前に、思わぬ人物が現れた。
「芙蓉様。お会いできて光栄です」
現れたのは、蘭妃の側近、宦官の“蓮生”。
「この事件には、妃様の御意向も関係しているかもしれません。お話したいことがあります」
その言葉に、芙蓉は警戒心を強めた。
蓮生は静かに語り始めた。
「妃様は後宮の安定を何よりも望んでおられます。香毒事件は妃様の敵対派閥による陰謀であり、妃様自身は被害者だと」
だが芙蓉には、どこか嘘の匂いがした。
「妃様は本当に無実なのか?」
蓮生は目を逸らし、言葉を濁した。
「真実は、私も知りません。だが、事件の背後には“もっと深い闇”があるとだけ申し上げておきましょう」
その言葉は、芙蓉の胸に重くのしかかった。
翌朝。
宮廷にて、芙蓉はひとり静かに誓った。
(揺らぐ香煙の先に、真実はある)
(その真実を掴むまで、私は決して歩みを止めない)
香の煙が揺れる。
その揺らぎは、やがて後宮の闇を裂く光となるだろう。