2 カラント伯爵家のブラッド
朝の校庭には、明るい風が流れていて、それをかきわけるようにして生徒たちの足音が広がっていた。
誰か、ひそひそと話している。ふわふわした景色のなかに、私はいた。
「──でさ、昨日のことだけど」
「ほんとに肘鉄、くらったの?」
「顔に。あの、バレンシア子爵令嬢よ?」
「よりによってカラント伯爵家のブラッド様が?」
まるで、少女小説の中のセリフみたいだった。
わたしは手を背中で組んで、廊下をのんびり歩いていた。
記憶喪失ごっこは、続けるって決めた。
顔に残る青あざは、昨日の事件の証だったけれど、鏡に映る自分はなんだか他人みたいだった。
「この校舎って、思ったより広いのねぇ」
角を曲がろうとしたとき、声が聞こえて立ち止まる。そろりと覗き込むと──
(……エリオット?)
胸のなかが、プルンとゼリーみたいに震えた。そこにいたのはエリオット。でもその腕には、知らない女の子。ピンク色の髪がくるんと揺れて、制服のスカートがすこし短くて、彼の袖をきゅっとつまんでいた。
「もう、ダイアナ、くすぐったいよ」
その一言に、心の中で何かがパリンと割れた。**くすぐったい**って、なんなの? でも私は、いつも通りの声で問いかけた。
「……おはよう、エリオットさまですよね?」
「やだ、誰? この子」とダイアナ。
「なんだ、ビビアンか」って、エリオットは言った。意地悪な、その態度に心がざわつく。
「記憶、戻ったのかい?」
彼がそう言って、口角をひょいっと上げたとき、私は言葉につまった。
「えっと……ブラッドさまは一緒じゃないの?」
その瞬間、自分の演技に手を叩いた、でも胸の奥では、冷たい水がすっと流れた。
(これ……いつまで続けるの?)
そう思ったとき、ブラッドさまが来た。
「エリオット!」
廊下の空気が**ピリッ**とした。
エリオットは、軽く肩をすくめて、ダイアナの背中を押した。
「ごめんねー、先に行ってるよ」
去っていくふたりの背中。私はそれを追わなかった。これはエリオットのお芝居よね?
気づくと隣に、ブラッドさまがすぐ近くに立っていた。いつもは、もっと遠くにいる人だったのに。
「……ビビアン。体調はどうだ?」
「ええ、まったく覚えていないから、具合が悪いのかどうかもわからなくて」
「ふふっ」と笑うと、ブラッドさまは少しだけ目を伏せ「すまない」と言った。
それって昨日の肘打ち? それとも、このくだらないお芝居のこと?
「もう気にしないで、わたしも悪かったの」
「いや、何か、困ったら言って欲しい。償いになんでもするから」
そんな優しい言葉、でもわたしは、さっきのエリオットの態度に頭がいっぱいだった。
(まさかエリオット……ほんとうに、あんな女の子と?)
心の中がざわざわしていたけど、口元は勝手に笑っていた。
「あー、エリオットさまって、モテるんですね、ふふ」
そのとき、ブラッドさまの瞳が、少し揺れた。
「……弟のことは、あまり信用しない方がいい」
わかってる。お芝居よね、エリオットってば、私を困らせたいのよね?
私はその横顔を見上げて、ぽつりと尋ねた。
「……じゃあ、あなたのことは?」
返事なんて期待していなかったのに、ブラッドさまは一瞬だけ立ち止まって、それから背中を向けたまま言った。
「俺は君の婚約者ってことで、良いんだよな?」
「う……うん」
予鈴が鳴って、彼の後ろ姿が、朝の光に溶けていった。私は、ぽつんとその場に取り残された。
(ねえ、なんなの……これって?)
こめかみをそっと押さえて、歩き出した。エリオットはまるで別人。ブラッドは優しいけど、嘘つき。私はと言えば、記憶喪失のふりをしている変な子。こんなの、どうやって終わらせたらいいの?
**──いつ、「ごめんなさい、全部うそでした」って言えばいいのかな……。**
読んで頂いて有難うございました。




