11 ショック療法
朝の校舎、いつもは騒がしいのに今日は静か。
わたしは深呼吸して、階段を上りはじめた。テストが始まる。緊張してた。
それなのに。
踊り場で、下から誰かに名前を呼ばれて、
振り向いた瞬間、ふいに背中に力がかかった。
あ、と声が出る前に、前のめりに。
とっさに手すりをつかんで、なんとか持ちこたえた。
足を捻って、ちょっと痛い。
「大丈夫……?」
目の前にいたのは見知らぬ女の子。目がぜんぜん笑ってなかった。
唇の端だけが吊り上がってて、冷たい顔。
「わたし、誰かに、押されたかも……」
「気のせいじゃない?
ねぇ、気をつけた方がいいよ。階段って、案外、死ぬから」
わたしはうなずいた。足がふるえて、怖かった。
「集中しなきゃ……」
そう思ったのに、その日のテストはさっぱりだった。
朝の出来事が、じっと後を引いた。
次の日も、またその次の日も。
中庭を歩いてたら、上から植木鉢が落ちてきた。避けたけど、土が跳ねて制服が汚れた。
別の場所ではバケツが目の前に落ちる。
廊下では、誰かがぶつかってきて、こけて手首をひねった。
階段では、また押された。あと一歩で、落ちるところだった。
偶然じゃない。
そう思うたびに、冷や汗。
手足は軽い捻挫、膝にはすり傷。
怖いのは、狙われる理由がわからないこと。
その日のテストが終了するたび、直ぐに寮に戻って部屋に籠った。
テスト期間で図書室が閉まってて、ブラッドにも会えなかった。
1週間後、やっと開いた図書室で、わたしは彼を待った。
頬杖をついていると、後ろから彼の靴音がコツコツ近づいて来る。
「テストどうだった?……怪我してるのか?」
ブラッドの声に、顔をあげた。
「……誰かに、狙われてる気がするの」
「顔、見た?」
「階段で一度だけ。黒髪の2年生。ポニーテールに……水玉のリボン」
彼は何も言わずに、立ち上がって、出ていった。
静かに。でも、その背中からは怒りが滲んでた。
終了時間になっても、戻ってこなかった。
帰ろうとすると、廊下にエリオットがいた。
「やあ、ビビアン。記憶は戻った?」
「まだ。それより、婚約破棄の話は聞いてるわよね?」
「んー、なんか手紙来てたけど、開けてないや」
「ちゃんと返事しないと、困るのはあなたよ」
その瞬間、バチンと頬が痛んだ。
彼に、殴られた?
「これで思い出した?」
「エリオット……!」
もう一度、頬を叩かれた。今度は、さらに強く。
わたしは崩れるように床に膝をついた。
初めて彼が、こわいと思った。
「何をしてるんだ!」
ブラッドが戻ってきた。遅いよ。でも、すっごく安心した。
彼はエリオットの胸ぐらを掴んだ。
「兄さん、僕を殴れるの?」
「お前こそ、よくもビビアンを殴れるな!」
「ショック療法だよ。記憶、戻すためにさ」
次の瞬間、ブラッドの拳がエリオットに飛んだ。
1発、2発、3発……
「これもショック療法だ! お前のクズ根性、叩き直す!」
「もういいよ、ブラッド」
わたしは手を伸ばして止めた。
「今ので、記憶が戻ったみたい……」
もう嘘は終わらせよう。正直になる時がきた。
「ビビアン! 本当に?」
2回も殴っておいて、嬉しそうなエリオット……
「ええ。あなたが、どれだけクズ野郎か、ぜんぶ思い出した」
「うそ、僕と愛し合ったことは?」
「キスひとつしなかったくせに、なに言ってるのよ」
わたしは、頬を打ち返した。パチン、と軽快な音が鳴った。
ブラッドが調べてくれた。
わたしを狙ってたのは、やっぱりダイアナだった。
エリオットの腕時計を換金して、そのお金で、友人たちにわたしを襲わせたらしい。
わたしの記憶を取り戻すためだった、と彼女は言った。善意のつもりだったって。
酷いよね?
怪我までさせておいて、そんな言い訳、通らない。
「平民が貴族を狙った罪は重い。退学だけでは済まされない。……エリオットもだ」
ブラッドはそう言った。
わたしにはわからなかった。
この学園にいられるくらいだから、ダイアナはきっと頭がいい。
なのに、どうして、こんなふうに壊れてしまったんだろう。
エリオットを愛していたから?
たとえそうでも、許せないし、同情もできなかった。
怖かったときの記憶を、全部思い出すのも嫌だった。
――この婚約、終わりにしたい。
エリオットと、もうこれ以上、何も関わりたくない。
読んで頂いて有難うございました。