1 ビビアンの記憶喪失劇
わたしの名前はビビアン。バレンシア子爵家のひとり娘で、十六歳。どこまでも青い空の下、わたしは王立学園の長い廊下を歩いていた。
ここの学園は、レベルが高くて、昨年一度落ちてしまったけれど、今年はなんとか合格した。
たくさんの寄付もしたけれど、それでも駄目だったのは、ちょっとおかしいなって思う。けれど一年間、必死で勉強した。
わたしなりに、たくさんのことをあきらめて、がんばったつもりだった。
なのに──初日の授業をすっぽかして、わたしはいま、医療室のベッドで顔に冷たいタオルを当てている。
ベッドのそばには、ブラッドさまが立っていた。
彼はどっちかというと、わたしを嫌っていると思うの。
ブラッドさまは、わたしの婚約者・エリオットの双子のお兄さん。きれいな顔も、金色の髪も背中のラインも、二人はほとんど同じに見える。
違いと言えばブラッドさまの額には小さな傷跡があって、銀縁眼鏡をかけている、それだけ。
だから、つい──後ろから、歩いていたブラッドさまをエリオットだと間違えて、「わっ」なんて声をかけてしまったの。肩をつかんだその瞬間、彼はふりかえりざまに、肘をわたしの顔にぶつけた。
目が覚めたときには、ここにいた。どうしてこうなるんだろうって、ぼんやり思いながら、天井の白い板を見つめていた。
そこに、ばたばたと駆けてきた足音。
「ビビアンが怪我したって⁈」
エリオットだった。
「ああ、すまないエリオット。驚いて振り返ったら、ビビアン嬢だった」
そう言ったのは、ブラッドさま。あくまで冷静な声だったけれど、彼なりに責任を感じているのかもしれない。
「ビビアン、大丈夫かい?」
エリオットが、わたしの白金色の髪に触れてきた。その手が、あたたかくて、やさしくて。
嬉しくなったわたし、ちょっと、思いついてしまったの。
彼の青い目を見て──不思議そうな顔で、こう言った。
「……あなたは、だあれ?」
彼の目がまんまるになった。わたしも、なるべく真剣なふりをして、首をかしげてみた。
先生にいろいろ聞かれても、よくわからないふうに答えていたら、「健忘症かな」とか「記憶がないみたいだね」って言ってくれて。おかしくて、ふふってなった。
「ビビアン、僕のことも忘れたの……?」
エリオットが、悲しそうな声で言った。
その時、わたしは「うっそぴょーん!」って言おうとした。ほんと、冗談のつもりで。
でも──
「僕は、君の婚約者ブラッドの弟だよ」
え? なにそれ。どういうこと?
「おい、エリオット!」ってブラッドさまが怒って、二人は一緒に部屋を出て行った。
そして数分後、戻ってきたのはブラッドさまだけだった。
わたしの悪戯がバレて、エリオットを怒らせちゃったんだーーって思った。
エリオットったら、すぐ拗ねるんだもん。
分かってるのに、わたしってば馬鹿だなぁ。
「あの……」
「ビビアン、まだ痛むか? 本当に、すまなかった」
「うん……ねえ……」
「あ、タオルを冷やそう」
ブラッドさまが、新しいタオルに替えてくれた。
「ねぇ、婚約者って、本当なの?」
「ああ……俺はブラッド。さっきの彼は弟のエリオット。俺と君は三年前に婚約したんだ。今日はもう帰宅しよう。送っていくよ」
これはもう双子で共謀して、わたしをからかってるに違いない。まさかブラッドさまがこんな風に演技をするなんて、思ってもみなかった。
でも、エリオットが戻ってこない。あのまま怒って帰ったのかな……。
不安が、胸にじわじわ広がる。
「でも今日は、初めての授業なのに」
「勉強は俺がいつでも教えるから。今日は、帰ろう。ね?」
……ブラッドさま、優しすぎる。うそみたい……
医療室の先生は「そのうち記憶は戻ると思うけど……気を付けて様子見ね」と言って痛み止めの薬をくれた。
その日、わたしは学園の寮までブラッドさまに送ってもらって、彼は寮母さんにわたしのことを頼んで、帰っていった。
顔にできた青い痣が、触ると痛い。痛み止めの薬を飲んで、ベッドにもぐりこんだ。
そして、ぼんやりと考えていた。
もし、エリオットを怒らせたのなら、わたし、**本当に記憶喪失**ってことにしないとダメかも……
読んで頂いて有難うございました。