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第二話 ヘルプミーの向こう側/どっちもどっち・3

 はっ、と、大心はまた我に返った。

 また“記憶吹っ飛び”が起こってしまった。さっきまで学校にいたはずなのに、と、記憶を掘り返してみる。放課後になり、すると晴翔がやってきて、臨時収入できたから今日最近できたというパン屋に行って奢ってやるという話になり、パン屋巡りが好きな自分にとっては元々行こうと思っていた場所だからそれなら、となり、そして晴翔は一旦用事があるからと言って別れ……学校を出て、そこからの記憶がない。ないというより断片的で曖昧だ。いつものことながら大心は深くため息をつく。やっぱりこのまま放っておいていいわけはない。近いうちに親に話した方がいい……のはわかるのだが、いやしかし、とりあえずは——と、ふと晴翔に話してみるというのはどうだろう、と大心は思った。仲の良い友達に告げることで、自分の背中を後押ししてくれるような気がした。やっぱり、精神科に連れて行ってくれ、ということは、大心にとってかなりハードルの高いことだった。

 というわけで大心はどこをどう歩いてきたのか約束のパン屋の前にいる。晴翔は確か、何分ぐらい待ってて、と言ったが、それが“何分”なのかがどうしても思い出せなかった。やれやれ、と思いながら、それでも晴翔が来るのはわかっているし、好きなパンが食べられるのだし今日は奢りだし、それでストレスが少しでも解消できるならという風に大心は思おうとした。

「ああ、昨日の」

 すると声がかけられた。誰だ? と思ってそちらを見ると、昨日、音楽室で会った弐葉が現れた。

「あ。昨日の」

『呉弐葉』……『弐』ということは、上の兄弟に『壱』がいるのだろうか。だとして、なぜ自分はそれが気になるのだろう。少なくとも自分はこの先輩と面識はないつもりだった。確かに校内ですれ違ったことぐらいはあるのかもしれないが、しかしそれだけだろう。あるいは何かの賞でもとってちょっとばかり有名人で、自分はそれが心に引っかかっているのか……と考えてみても、そうも思えない。

 あるいは自分の記憶障害が忘れさせているのだろうか?

「待ち合わせ?」

 と訊ねてくる弐葉に、思うところはあれど一応先輩だしと思って、大心は「はい」と答えた。

「春元くんと?」

 この先輩は何者なのだろう。何の用があって今自分に話しかけているのだろう。晴翔と待ち合わせをしていることをなぜ知っているのか、あるいはなぜ晴翔が浮かんだのか。それもこれも失われた記憶の中にその答えがあるのだろうか……。

「うん?」

 とはいえ先輩である。どこでどう繋がるか繋がっているかわからないし、と思い、大心は弐葉を相手にする。

「はい。ハルと待ち合わせで」

「なるほど」

 沈黙。

 何だろう……この男は自分に何の用があるのだろう。

 今、大心は、弐葉を不審視する自分と、あるいは全ての詳細は自分の記憶に何の障害もなければ、このコミュニケーションにも何にも問題はないのかもしれないという思いとが交錯していた。後者であるのであれば……この男以外にも、そういう人物や、あるいは状況は他にも山ほどある可能性は充分ある。そうでないとは言い切れないだろう。なぜなら自分の記憶は吹っ飛ぶという問題を抱えているのだから。今後もこういうことが起こるのだろうか。自分は相手のことを何も知らないしわからないが、向こうは自分のことをよく知っていてわかっていて、それで自分は不気味がる、客観的事実として向こうは当たり前の行動を取っているだけなのに自分はそれに対応できない、というシチュエーションに、今後も何度も陥るのだろうかと、大心は日常生活の営みが不安で仕方がなくなっていた。

「あ。弐葉くん」

 だから今ここに、先日バス停で晴翔のことで自分に声をかけてきた見知らぬ女性が現れたことも、記憶と記憶の狭間で起こった出来事なのかもしれないと思うのだ。

 とはいえ、今の自分自身からすれば、不思議な状況であることは間違いない。

 何だこの女は……。

「ああ美奈子さん」

「パン屋さんに来たの?」

「知り合いの後輩に声を」

 全く知らない人ではない、という意味では確かに知り合いだが、しかし親しくも何ともない人物である。と突っ込む気力もなかったため、大心は、

「知り合いですか」

 と訊ねてみる。状況を打破できるだろうか。

 すると美奈子は。

「幼馴染みです」

 と答えるのだが、そこに弐葉は、

「みたいなもの」

 と注釈を加える。

 幼馴染みみたいなもの、とは、どういう関係性なのだろう、と疑問視する中——大心は、でも、この人たちにも事情があるんだろう、という発想が浮かんできた。

 自分に記憶の事情があるのと同じように、いや、あるいはそれだからこそ記憶と記憶と間の記憶の中でこの二人と絡んだことがあり、それでこの二人は自分とコミュニケーションを取っているのかもしれない。自分に事情があるのと同じように、この二人それぞれにも事情があるのだ。自分に特別な用事がなくても、向こうからすればおかしなことではないのかもしれないのである。あるいはこの「幼馴染みみたいなもの」という大心からすれば謎の関係性の二人も、彼らは彼らで何か重たいものを抱えているのかもしれない……自分だけが苦しんでいて良いわけではないのではないか、という気になり、やがて大心はそれを「どっちもどっち」というここのところとある古い少女漫画で読んで降りてきた処世術でまとめられるような気がしてきた。

 どっちもどっち、と考えてしまえば、そんなに自分のことばかり考えないで済むような気もしたし、そもそもどちらにも問題なり事情なり理由なりがあるという当然の事実を確認しておくことは間違ったことではないはずだ。それだけ客観的になれるはずなのだから、と、大心は、だんだん気が楽になってきた。そんなに自分のことばかり悩んでいるわけにはいかない、誰にでも理由があるのだから……と、そこで、そういえば、と、大心は思い返す。

 それにしても自分がこのような処世術を参考にしたのと記憶が吹っ飛ぶようになったのは近い時期のような気がする……。

 でも、だからと言って漫画を読んで記憶障害が発生したとは流石に思えない。

 ここ数週間の間に、何か自分の身の回りに決定的な出来事があって、そこに例の漫画のセリフが補完材料として効果を発揮した、と考えれば、それは自然と言えるのではないか。

 そんなことを逡巡していたら、美奈子が、

「じゃあわたしはこれで」

 と言ったので、大心はホッとしたが、一方でなぜだか残念な気持ちになった。

 何だ? この残念がる自分は?

 しかしそんな大心をよそに、弐葉も、「じゃあおれも。一緒に」と言ってその場を離れようとし始めた。

 残念がる気持ちが不思議な一方、自分がこのまま記憶障害を発端とする謎の苦悩に苛まされずに済むという思いもあり、大心はこの二人と別れようとした。と、そこに「おーい」と小走りで晴翔がやってきた。

「おう、ハル」

 と、声をかけると、晴翔は「お待たせ」と言いながら弐葉たちを見た。

「昨日の先輩と、あと……?」

 昨日、自分に声をかけてきた謎の女性を疑問視するのは当たり前だった。しかしその当然の疑問の前に、対応したのは弐葉だった。

「おれの幼馴染みみたいなもの」

「ふむ」

 大心はそこで、この女の人が先日晴翔に会いたがっていた女の人だよ、ということを告げた方が良いのかどうか迷った。晴翔からすれば混乱の種なのではないかと思って。

「春元晴翔くんだよね」

 そう考えていると美奈子が身を乗り出した。大心は思う。面倒なことはしないでくれたら良いのに、こいつはおれの友達なんだから……と。

「? はい」

「わたし、ナミ」

 ナミ? 美奈子とか自己紹介していたはずだ。みなこ、のあだ名みたいなものなのだろうか。そう思いながら、あれ、さっきまでの態度と違う……という感触を大心は感じていた。ふと弐葉の方を見るとやや顔を顰めていた。いよいよ大心は、この男女は自分たちに何の用事があるのだろうと思い始める。

 でも、お互い様だし。

 そういう風に考えてしまえば、それ以上、悩まなくて済むし。

 だから——そのように考えてみよう。『どっちもどっち』という言葉に代えて。

「春元くん」

「は」

「昔、犬を飼ってたよね。確か名前はナッツ——」

「え。え?」

 確かにこの女性は、昔自分と会ったことがある、と言っていたが、しかし、自分はこの人のことを覚えていない。そんな様子の晴翔を見て、今、記憶に問題を抱えている自分と同じような感覚を今、晴翔も抱いているのだろうかと思った。

 それでも……みんな、色々、あるんだし。

「ごめんね。わたしが覚えてるだけだから」

「え。あ。え?」

「こだわってるだけかも——じゃ、行こ弐葉くん」

「了解」

「じゃあね」

「え。あ。はい……」

 と言って二人は去っていく。

 首を傾げながら、何となくぼんやりした様子の大心に晴翔は話を振る。

「何だったんだろう」

「さあ——わかんない」

「……それじゃ、ま、パン食うかぁ。今日はおれの奢りだぜ」

「いいのかい」

「臨時収入、臨時収入」

「じゃあ、さんきゅ」

 と言って、晴翔たちはパン屋に入った。いらっしゃいませー、という中年女性の明るい声に二人はさっきまでの謎の状況から脱することができたのだという安心感に包まれた。

「わー。みんな美味しそう」と、晴翔は小さく感嘆した。「この胡桃パンなんてすごくない? CDより大きいぜ」

 胡桃=ナッツ。

「ナッツって、犬を飼ってたって」

 確かに直前のやり取りとの連想にはなるのだが、しかしなぜ自分がその話題を始めたのかが、大心にはよくわからない。

「ああ、うん。昔ね、子どもの頃に飼ってた犬で。夏生まれだからナッツ」

「死んじゃったの?」

「うん……」と、やや沈んだ表情。「うっかりリードを離したら次の瞬間トラックに轢かれちゃってさ」

「そりゃ、哀しかっただろ」

「でもいい思い出だよ。あー、ナッツにまた会いてーなー」

 もう思い出として消化できているようで、大心はホッとした。

 胡桃=ナッツ。しかし……なぜ自分はこの話題を。

「そういえば交通事故って言えばこの間も学校の近くで交通事故あったよな。あれ、被害者とかいなくて運転手も無事だったみたいだけど、ガードレールがめちゃめちゃになっちゃっててマジ気をつけなきゃと思った」

「——ああ」

 そういえば、数週間前にそんなことがあったな、と、大心は思い返す。

「……?」

「ん。どしたの大心」

「いや。何でもない」

 数週間前に、確かに、学校の近くで交通事故があって……。

 それが自分と何の関係があるのか、わからず、大心はトレイとトングを持って大好きなパンを奢ってもらえるなんてマジラッキー、という喜びに自分の記憶を覆い隠した。それこそ、精神科に行くために自分の背中を押してもらおうという発想も、何もかもを「どっちもどっち」という言葉で覆い隠したのだった。


 ナミと弐葉。

 歩きながら二人は会話する。

「ナミ」

「何?」

「春元くんに、結局、何の用?」

()()()()()()()()()

 弐葉はナミを軽く睨みつける。

「ナミのためにはならないのか?」

「結果的にはね」

「……」

「じゃあわたしはここで」

「おう」

 と言ってナミは立ち去ろうとしたが、そのとき。

「あ。弐葉くん」

 と彼女は意外そうな瞳で弐葉に声をかけた。

 いつものことだ、と思いながら弐葉は応える。

()()()()()()

「学校帰り?」

「まあね」

「高校生は元気ね」

 くすくす笑う。

 さっきまでの態度と違うから、すぐにわかる。

「じゃ、おれはこれで」

「うん。またね」

 と言って立ち去ろうとして背を向けたら、

「こういうことも春元くんをクリアしたあとは、安心してね——」

 と、再び態度を変えたので、弐葉は振り返る。もう彼女は後ろ姿になっていた。

「……」

 げっそりした弐葉は、とにかく自分は……寝転びたい。そう思って帰路に着く……。


『サンキューこーの』

『ノープロブレム。そっちの様子は?』

『盗聴器でばっちりよ。いつものことながらこーのの人脈は凄まじいな』

『あのパン屋のご店主本人は直接の知り合いじゃないけどね』

『だからこその人脈だろ? そっちは?』

『なかなか精神科案件っぽい』

『うーん。こういう場合、殺人にはならないかな?』

『まあ法の範囲外だろ』

『つくづくこーのの読唇術は完璧だ』

『家庭の事情でね。それじゃ後で店で』

『おっけ。ハルへの小遣いもマジありがたいぜ』

『腹減った』

 と、二人はLINEを終えて、それぞれのルートで自分達の根城よろずやつかさへと帰還するのだった。

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