第二話 ヘルプミーの向こう側/どっちもどっち・1
影響力。それは人間の証明。
バスに乗っていた谷川大心はその瞬間はっと自分がバスに乗っていることに気づいた。
またやってしまった、と、顔を顰める。ここのところこんなことがしょっちゅう起こる。起こるであろうことはわかっているのでできるだけ気をつけてはいるのだが、どうしてもこういうことが起こってしまう。
ここ数週間、記憶が吹っ飛ぶ、という体験をやたらとする。吹っ飛ぶ前から後までの記憶は断片的なものしかなく、例えば今こうやってバスに乗っていることも曖昧にしか覚えていない。いつからバスに乗り始めたのか、どこへ向かう目的だったのか——記憶を辿れば思い出せないことはないが、しかし断片的で曖昧であり具体的なことがよくわからない。とりあえず今、思い出せる範囲では、学校から自宅へ向かうに当たっていつものバスに乗った、ということはわかる。しかしそこからがわからない。そしてどうやら今、このバスは自宅の場所を越えてしまったらしい。だからこそ次の停留所で急いで降りなければならない。
どうして記憶が吹っ飛ぶようになったのかがわからない。数週間前まではそんなことはなかったのに。日常的にこの症状が出るようになってしまった。精神科とか心療内科とかに行って見れば良いのだろうか。しかし……親に病院に行きたいと言うことにはだいぶ躊躇いがある。頭がおかしいと思われたらどうしようという危惧がある。今どきは精神医療もだいぶメジャーにはなってきているようだが、しかし自分がその患者になるということにはどうしても抵抗があった。自分なりにスマホにメモを取るという対策をしてはいて、それによって日常生活にそこまでの支障は来してはいないのだが……それをすることで“記憶が吹っ飛ぶ”という症状がなくなるわけではない。大心は困っていた。
とにかく次の停留所で降りよう。どうやら自宅の場所からそこまで離れたわけではないようである。このまま徒歩で帰ることのできる範囲ではあったので、そこに関しては大心はホッとした。
……このままこの症状を放っておいたら、やがては飛行機に乗ってしまったりとか、そんな絶体絶命の事態に陥ったりするのだろうか。やがて認知症のような状態になってしまうのだろうか。そんなことになるのは絶対に避けなければならないのだが、しかしどうしても対策がわからない。親に相談する、というのが、まず第一歩であることはわかるのだが、そこをどうすればいいのか、わからない。
スマホを取り出す。今日これからの予定は特にない。さっきまで学校で、全ての用事が終わったから帰宅することにしたのであり、家に帰っても勉強したりゲームしたりいつもすることをするぐらいだろうか。それより、とにかくベッドになだれ込みたい、と思っている。何だか疲れている。それもこれもこの記憶問題によるものだ、と、大心はそう思っていた。
次の停留所へとバスは近づく。さあここで降りなければ、と、大心は降車の準備をする。スマホでピピッとすれば色々な買い物ができる世の中とは何と便利なことか、そんなどうでもいいことを考えながら、やがて大心はバスを降りた。
「えーと」
ここからなら普通に歩いて帰れるし、別に雨も降っていないから、ちょっとした散歩ということになるだろう。それにしても料金が嵩んだことと歩きたくもないのに歩くことに関して大心は小さくため息をついた。とにかく、家に帰ろう、と、思って歩き始めたら、
「あの、すみません」
と、女性が自分に声をかけてきた。
「? はい」
変質者などではなさそうだったが、知らない人間に声をかけられるのはあまりないことだったため、もちろん大心は警戒する。
女性は訊ねた。
「あの、その制服」
「?」
「N高の方ですよね」
「そうですけど」
「そうですか……」
ふう、と、その女性は小さくため息をついたため、大心はなんだろうと訝しむ。
「何か?」
「あのう。春元晴翔さんってご存知でしょうか」
「え、ハルですか」
彼女はちょっと笑顔になった。
「あの、わたし菅生美奈子と申します。春元くんには子どもの頃お世話になったことがあって。会いたいと思っていて」
「……」
とりあえず本名を名乗ったことはわかるが、偽名の可能性ももちろんある。大心は警戒を続ける。
「でも——N高に行っていることがわかれば、それでいいので」
まずい、と、大心は思った。この女性は晴翔がどこの高校に通っているのかを自分に確認してきたのだ。つまり彼女は今後N高にやってきて晴翔に接触する可能性がある。晴翔の知り合いということだがどこまで真実かなどまるでわからない。どうしよう、晴翔が厄介な目に遭わないようにしなければならないが、しかしこの女性と連絡先を交換しておくというのには無論躊躇いがあった。なんと言っても初対面の人物であり、少なくとも自分には素性がまるでわからないのだから。
「あ。すみません。それじゃ」
「あ」
と言って彼女は足早に去っていく。追いかけた方が良いのだろうか。しかしそうしたところでこの場をどう解決すればいいのかわからない。どうすればいいのかわからなずにいると、やがて美奈子の姿が小さくなった。
「なんだ?」
しかしとりあえず、晴翔に連絡をしなければならないことだけは、わかる。
よろずやつかさ。
「ふむ紗夏ちゃん。友達は大切にした方がいいのだけれどね」
「はあ」
紗夏は顔を顰める。自分はここに悩み相談をしにきたわけでもなければそもそも用があるわけでもなく、ただただ晴翔に連れられてやってきただけなのに、話題がどんどん展開していっていつの間にか自分の人間関係の悩み相談をするハメになってしまった。どうしてわたしはこのおっさんに相談なんかしているんだろう、そこまで隆起を別に信頼しているわけでもないというのに。しかし晴翔は隆起なら話を聞いてもらえると思っていたし、隆起は隆起で相談に乗り気のようだったので紗夏としては話さないわけにもいかなくなっていた。
晴翔はどうも隆起のことをやたらと気に入ったようで、最近、しょっちゅうこの何でも屋に入り浸っている。確かに危険な店でも怪しい店でもないのはもうわかっているが、それにしても紗夏としては面倒臭いことこの上ない。わたしは何だかんだ言って晴翔の彼氏なわけだし、晴翔ともうちょっとコミュニケーションを取りたいと思っているのだが、当の晴翔としては隆起と過ごすことが紗夏とのコミュニケーションを取ることであると思っているようで、だからこそ紗夏としては歯痒いやら何やらとにかく面白くなかった。
などということを考えている紗夏に気づくこともなさそうで、隆起は話を続けた。
「一般論として、ただ一通の泣き言長文LINEで三年間の関係性や絆が崩れるとも思えないし、それより紗夏ちゃんには元々その子に対して思うところがあってそれが爆発したって考えた方が自然だよ」
「だから、わたしとしては別に関係を切ろうとまで思ってるわけじゃ」
と言いつつ、遠方の友達との関係をどうしようかと悩んでいるのも確かだった。その女の子はちょっと難しい子で、普通に電話をしている分には楽しく話せるのだがLINEがとにかくつまらなかった。長文が基本であり、しょっちゅう愚痴を言ってくる。文章の形でそれを読ませられるのも辛かったので電話をすることが日常だったのだが、この間送られてきたLINEは本当に辛かった。だから二通ほど既読スルーでいたらそれ以降連絡が来ない。このまま関係が途切れてしまうのだろうかという思いもあったが、しかしその方が気楽になれるという思いもあり、しかし確かに友達であるとは思っていたため、つまり紗夏はその子と今後どう付き合えばいいのかが悩ましかった。
「人間関係っていうのはさ。特に友達っていうのは、もうちょっと情熱的なものだよ」
「はあ」
「普通に話してる分には普通に楽しいんだろ? LINEがつまらないならLINEがつまらないで、そこの部分にいちいち注目していたら健康的な人間関係は営めない。誰にだって不完全なところはあるんだから。そもそもLINEのコミュニケーションなんて所詮LINEのコミュニケーションだし」
「だから〜わたしとしてはなるようになると思ってますって」
「そもそも紗夏ちゃんはその子のことが好きなの? ちゃんと?」
「それは、まあ、好きですけど。でも別に次に連絡が来たらそのときの内容次第だなって。とりあえずこのまま連絡が来ないなら、それまでなのかなぁとも思うし」
「来る者は拒まず、去る者は追わず、というけどね。来る者は拒まずにも言いたいことがあるんだけどそれは置いといて」と、隆起は右手を右側に寄せるジェスチャーをした。「去る者は追わずっていうのは、要するにその子に対してそんなにこだわりがないってことでしょ。少なくとも一度の喧嘩でこだわりがなくなったっていうのはそれはこだわりがないってことでしょ。それって何のために一緒にいたのかね? それともおれがしつこいのだろうか? 流石に避けられてたり明かに嫌われてたらもう追わないけども。でも、おれはこーのにいなくなられると、単純に困るんだけどね」
ペラペラと喋ってくる隆起の言葉はごもっともなところもあるとは思うのだが、しかし自分としては別にその友達に対してそこまで強烈な拒絶を感じているわけではないのだ。だがどうも隆起(と晴翔)は紗夏が深刻な悩みを抱えているように見えているようだった。
別にこのままのスタイルを自分は続けて、向こうから連絡がまた来たら、そのときのことはそのときに考えよう、と思っているだけなのだが、どうやらこの二人はさっさと連絡を取れと言っているようで、そこがどうももどかしい。そこに関して、今の自分がどうしたらいいのかがよくわからないし、どうするのが最適解なのかもわからないし、しかし別に今すぐ答えが欲しいわけでもないというのにこんなにせっつかれたら自分としては困ってしまう。というわけで紗夏は言った。
「とにかく、なるようになるし、なるようにしますから」
「おっけ。どうも余計なことをこのおっさんはしていたようだね」
ぎくりとする。
「そんなこと。アドバイスありがとうございました大変参考になりました。それじゃ晴翔、帰ろ」
早口にそう言うと晴翔は分かりやすくがっかりした。
「え、もうちょっといようよ〜。紫乃さんのお茶飲みた〜い」
「今までの傾向から言ってそろそろお茶出てくると思うよ。今日は高級なお菓子もあるのでよかったらどうぞ」
「うわ〜い」
隆起の言葉に無邪気に喜ぶ晴翔。全くわたしはこの男子のどこが良いのだろう。
こだわり、という今の隆起の単語を思い出す。だから付き合っている、というのは、いいことなのかどうなのか。ちゃんと好きではあるし、ちゃんと恋愛感情ではある。
遠方の友達のことを思う。
——こだわりねぇ。
そのとき、晴翔のLINEが鳴ったので、彼はスマホを起動する。
「誰?」
「大心」
「何だって?」
文面を読んでいく晴翔は、だんだん怪訝そうな顔になっていった。
「女の人がおれに近づいてくるかもだから注意しててって」
「女の人〜? 誰よ」
「知らないよ〜。とりあえずおれは紗夏といるよ〜」
「とりあえずって何?」
「まあまあ紗夏ちゃん。本当に君は姉さん女房だねぇ」
「確かに誕生日は早いですけど」
「でもベッドの上じゃ君が子猫ちゃんなんだろ」
「ちょっと……」
ギョッとする紗夏をよそに晴翔は大心に返信し、やがて終わったようだ。
もう、と言って頬杖をつく。
「大心、気にしてないといいんだけど。単におれがモテるだけなのかもしれないし」
「大心くんなら気にしてないんじゃないの」
「なんで?」
「だって大心くん、最近なんか両論併記が多くて話しててめんどくさいんだもん。どっちもどっちってそればっかりでこっちの話に寄ってくれないのよね。どうせ今回のことだって晴翔にも問題があるみたいなことを言うのよ」
「ふむ。紗夏ちゃんはもしかしたら高位の影響力をキャッチする能力があるのかもしれぬ。前回のこともあるし」
え、と、二人は目を剥く。
「今回は大心すか」
「その可能性はある」
このおっさんからすれば全てのことが高位の影響力とやらで説明がつくのだろうかと紗夏は呆れる。
隆起は続けた。
「影響力はいつ発現するかわからない。気をつけていた方がいいね」
「はあ。大心くんがそんなにすごい人とは思えませんけど」とはいえ前回の隼人の件もある、とは思う。それだって結局のところ何が起こって何がどうなったのかなんて自分にはまるでわからないのだが。「とにかくそれじゃいい加減帰ろうよ」
「お茶、お茶」
「もう」
「おれたちの仕事の可能性がある」
どうしてこの男二人はこんなにもわたしを置いてきぼりにするのだろうか、と思いながら、紗夏は、おじさんが暇人ってどうなのかしら、と、つくづく呆れるのであった。




