第六話 レッツゴーよいつかまた/たのしくやろうよ・1
影響力。それは人間の証明。
あれは小学校四年生の冬。
いつものようにのんびりと漫画を読んでいたら、突然スキーに行くことになった。事情は知らない。父の昔からの友人というおっさんが我ら一家もとい子どもたちをスキーに連れて行ってくれる、ということに、もしかしたら前々からなっていたのかもしれないがぼくはそんな話は聞いていなかった。とにかく突然スキーに行くことになったのだ。寝耳に水だった。ぼくとしては大人しく家で漫画を読んだりゲームをしたりして過ごすつもりだったので、突然のスキーが本当に嫌で嫌で仕方がなかった。
だが十歳の子どもが親という人物の権力に逆らえるわけもなく、ぼくと弟たちはスキーに行くことになった。
そしてスキー場。ぼくはこれが生まれて初めてのスキーだった。生来体を動かすのがあまり好きではなく嫌で嫌で仕方がないぼくではあったが、それでも初めてのスキーならびにスキー場にまるで好奇心が湧かなかったわけではない。仕方がない、それでもやるだけやってやるか、というぐらいの気持ちで、ぼくはスキー板を履かされた。
そしてそのまま放っとかされた。
ぼくはスキー板を履くということ自体人生で初めてであり、ろくに身動きも取れない。前にも進めず後ろにも進めず、板の脱ぎ方もわからなかったため、そのまま小一時間放っとかされた。
なぜ放っとかされたかと言えば、母が、自分の力で乗り越えなさい、と命じたからだった。しかし動くことがままならない。自分の意思で前にも後ろにも横にも進めない。板も脱げない。だからぼくは、そのまま突っ立った状態で、雪の中を過ごす。
そしてかなりの時間が経った後、前方から少女が滑ってきた。避けられない。少女もぼくをうまく避けることができず、そしてそのままぶつかった。
スキー板とスキー板が絡み合い、ぼくも彼女もどうすることもできなかった。そのまま工夫したがどうにもできない。前に進めばいいのか、横に移動すればいいのかもわからないし、そもそもぼくも、そして彼女もうまい具合に離れることができずにいた。
そして数分間その状態でこんがらがっていると、ようやく事情を悟った母がやってきて、ぼくからスキー板を剥がしてくれて、そして少女と離れることができた。
そしてぼくは、少女に、ごめんね、と謝り——そして板とストックを放り投げた。
ようやく自由の身になれたぼくは建物の中へと入っていく。寒かった。暖かいところに行って暖かいものが食べたかった。板とストックを回収した母親がやがて建物の中、テーブル席で呑気に暖気を取っている父と父の友人夫婦の元へ行く。彼らは「楽しんでる?」と無邪気に訊ねてきたが楽しいはずが微塵もあるわけもない。ぼくは彼らに怒鳴る。「来なきゃ良かった!」。やがて怒りながらラーメンを頼んでもらい、怒りながらそれを食べる。彼らは何か厄介なものを見るような目でぼくを見る。
割といつものことだ。
やがてぼくが、こんなことなら本でも持ってくれば良かった、と呟くと、母が怒る。そして気を取り直してまた滑りに行こう! などとぼくに言う。
冗談じゃない、と思う。“また滑りに行こう”も何もぼくは身動き一つ取れない状態にいたのだ。もはやスキーを楽しむなどというテンション、好奇心は一切消滅していた。
だからぼくはもうこのままここのテーブルにいるからみんなで楽しんできてよと言った。
すると大人たちは、ならば帰る、と言う。
謎の展開である。なぜぼくに合わせるのか。弟二人はスキーを教えてもらい、どうやら楽しんでいるようであったから、こんな早めに帰ることが納得いかなかったようである。だろうなとぼくは思った。だから彼らに合わせれば良い、そう思った。
ところが大人たちは、お前が滑らないなら帰ろう、と言い立てる。当然、弟たちは抗う。ぼくに滑ろうと言ってくる。だがぼくはもうスキー板を履く気は生まれない。
だから、そのまま帰ることになった。
どうやらそれはぼくのせいであるようだった。
「じゃあさっさとして! こんなとこもう一秒もいたくない!」
と怒鳴り、やがてぼくらは車に乗り込む。弟たちは終始ぼくを睨みつけた。
車が動き始めてすぐ、母が「ごめんね、こんなことになって」などと隣の奥さんに謝るが、すかさずぼくは「ねぇ、静かにしてくれる? ぼく静かなのが好きなの」と呟いて、すると彼女は黙りこくった。動き始めて数十分後、ファミリーレストランが見え、父の友人が「食べに行こうか」と言う。すかさずぼくは「あーあ、早くお家帰りたーい。早くまともな休日過ごしたーい」と呟いて、すると彼も黙り込んだ。
沈黙と静寂の中、弟たちの視線が辛い。彼らはぼくを睨みつける。
睨みつけるなら、大人たちに対してだろうが。
やがて車は家に到着した。
「おじさん」
「何?」
「これからうちを何かで誘うときはぼくのことは無視してください。迷惑なんで」
と言ったら母が怒ったが、
「みんながスキー楽しんでたの、ぼくの犠牲の上だってこと忘れないで!」
と怒鳴ることにより黙りこくった。
やがて家の中に入ると、下の弟が、「せっかくスキー楽しんでたのに!」とぼくに怒鳴り込んできた。だからそれは大人たち、特に何と言っても母に言うことだろう、とぼくは思う。そしてぼくは玄関を出て、友人とその妻に謝罪している様子の両親に大声で怒鳴った。
「お母さんが悪いんだ! お母さんのせいでこんなことになったんじゃないか!」
——やがて事態は落ち着いていき、ぼくは一階に降りて、ねぇ何か食べるものない? お腹空いちゃった。と訊ねると、母がどういう発想のもとのセリフなのか「満足?」とぼくに訊いてきた。だからぼくは答える。
「ねぇ、お母さん、自分の力で乗り越えろって言ったじゃん。自分の力で乗り越えた結果早くお家に帰れたわけだからお望み通りでしょ」
母は渋い顔をする。
「悪かったよ」
「ごめんでしょ?」
「ごめんなさい」
「わかりゃいいんだ」
そしてぼくは居間を出ていくにあたって捨て台詞を吐く。
「ぼくだってスキーしたかったのに」
時が経ち夕飯。ぼくが「あー今日は漫画を読んだりゲームをしたり楽しい休日でした」と呟いてみると父が「スキーは?」と訊ねてきたので「ああ、そんなこともあったね。誰かさんのせいで散々なことになったけど」と答えると母が泣きそうな顔で食卓から離れていった。そして兄弟たちはぼくに文句を言い続ける、という最悪な夕ご飯だった……。
ということを担任の先生に連絡帳の「どんな休日を過ごしたか」という質問にありのままを書いて報告する。すると彼女も「お前が悪い」という返事を書いてきたので、ぼくは——もう、いい、と思った。
どうやら今回の事件は、登場人物みんな揃って「お前が悪い」ということに落ち着いたようである。そんな小学校四年生の冬だった。
——割と子どもの頃から「お前が悪い」と責め立てられることが多い。
前後の文脈も論理も客観的事実も関係なく。
……だから、今の生活が存在しているのも、自明の理なのかもしれない。
『やあツー』
というワンからのLINEに隆起はすぐに返信した。
『やあワン』
『どうだね調子は』
『相変わらずさ。ごくたま〜に何でも屋らしい仕事をしているだけで、稀〜に高位の影響力の抹消に動いて、そして平成ゲームを楽しんでいるよ』
『こーのも君の運命共同体として生きていくことを決めているようだからね。ただでさえお坊ちゃんでそこそこ稼いでるから金には困らないか』
『ありがたい話ですよ本当に。ワンはどうしてるんだい』
『相変わらずさ。ごくごく普通に働いているよ』
『それは良かった。見習いはしないけどね。おれの天職はニートだと思ってるからね』
『ニートもいいんじゃないかな。それも定めなら』
『神様の命令には逆らえないね。弱者として生まれた以上弱者として生きていき弱者として生かされるのもそれはそれで弱者として生きていけるならありなのだろう』
『そしてニートみたいな社会的弱者は、救いたい姿をしている弱者とは言えない』
『まさにその通り。そもそもニートがニートたる時点で精神や人格に問題なり障害なりあるいは欠陥なりがあるわけだが、仕事をしていない、という点で理解も同情も共感もされない』
『異常なことをしているのにね』
『そうだね。将来も気になる。果ては生活保護だろうか』
『それが気に入らないのだろうかね』
『ある人がニートになるのは無茶なことかもしれないが、生活保護を受給することは無茶なことではない。でも、ニート批判生活保護批判をしている人々も、じゃあ自分も保護されよう、とはならない。要は人間として下劣な状態だと思っているんだね』
『みっともないことかもしれなくても、だって生きていかなくちゃ』
『多分、世の人々は、自分が思っているほどそこまで切羽詰まってないってことなんだろうね、実のところ』
『そうだね。余裕がある、ということだ』
『君はどうだい。余裕はあるかい』
『働くのは辛いが、“とはいえ”働けているからね』
『それはいいこと、なのだろうかね?』
『何だかんだ言って、とはいえできている、というのは、少なくとも社会に適応はしているんだろうね。ニートと違って』
『そうだね。つまり社会に適応できていられるかどうか。あるいはそのために……高位の影響力があるのかもしれない』
『なかなか見事に着陸したね』
『それはどうも』
『それじゃやり取りをありがとう。また会おう』
『またね』
と言ってLINEを終える。
いつもの風景だった。
割といつものように隆起は店に来た晴翔の頭を撫でながら“高位の影響力”を抹消した。
「君は本当、ものの影響を受けやすいね」
「すぐ信じちゃいますしね」と、一瞬の気絶という体験をした割には晴翔は慣れたように対応する。「疑うことを知らぬ純真な男子高校生」
「しかし疑い続けるということは一旦信じるに値すると判断したら一気に飲み込まれる」
「初対面のときに言ってたことっすね」
「ものの影響を受けやすい、ということは、冷静になるのも早い、ということ。それだけ影響力に支配されないということ」
「なるほど。紗夏、ちゃんと聞いとけよ」
「何でわたしに話を振るのよ」
「ツーちゃんさん的には、おれよりお前の方が危険みたいだし」
紗夏はムッとして言葉を返した。
「でもしょっちゅう高位の影響力を抹消されてるのはあんたでしょ」
「だからま、こうやってハルに及んだ影響力を抹消しているのもどちらかと言えばハル本人のためというよりも周りの人たちへの感染を防ぐためだね。紗夏ちゃんとか紗夏ちゃんとか紗夏ちゃんとか」
隆起の説明に、もう、と紗夏は頬を膨らませた。
と、晴翔は今の説明に反応した。
「あれ、おれ本人のためではない?」
その質問に隆起はゆっくり言葉を紡いだ。
「ハルの場合、影響力は遅かれ早かれ消滅する。それが高位の影響力とはいえ違いはない。問題は、例えば例の如く紗夏ちゃんのように真にものの影響を受けやすいタイプに感染したときに一気に伝播してしまうということだ」
「それっておれの場合なんすよね」
「左様」
ふと気になって晴翔は訊ねた。
「他の人たちの場合は?」
「高位の影響力は確かに世界の仕組みを丸ごと変える力ではあるが、万能ではない。魔法のような力とはいえこの世界の数学的法則を捻じ曲げたりはしないし、影響力とはあくまでも数ある力のうちの一つに過ぎない」
「? ふむふむ」
「そして影響力とは、ある日突然消滅することがある。それは高位の影響力であれ同じこと」
「それはどんなときに?」
やがて隆起は、半分微笑みながら、そして半分真剣に、こう答えた。
「それは……“冷めた”ときだ」




