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第四話 アンビリバボーは洒落臭い/おれのほうがつらい・4

 富井とみいクインシーはとかく自分の名前が嫌いだった。

 自己紹介をすれば十中八九「トミー・クインシー」という名前だと思われてしまうのは彼にとって常態であり、富井です、と訂正することで相手に何だ富井か普通だなと一方的に失望されることはもう慣れっこではあったが呪うべきことであった。そもそもハーフとして西洋人の名前を与えられたクインシーではあったが成長過程で自分が西洋的な顔立ちにはならずあくまでも日本人である母親の血を濃厚に受け継いだアジア系の顔立ちとなっていったことが悔しかった。多少なりとも“ハーフっぽさ”があればまだマシだったが、明らかな日本人の下の名前がクインシーなどとは事情を知らない他人からすれば異様な名前に思われても仕方がないことであり、そして呪うべきことであった。

 この名前で色々辛い思いをしてきたな自分は、という歴史をクインシーは常に呪う。ただ名前が日本人男性の名前であったならそれだけで自分の歴史は百八十度変わったものとなっていたであろう。しかしこのクインシーという名を持つ歴史こそが正史である。今更抗うことはできない。本当に、何度法的に改名しようかと思ったかわからないが、しかし申請する前から「嫌だから」という理由では受理されないことはわかりきっていたのでクインシーは改名があっさりできない日本の制度も呪うべきこととして映っていた。

 本当に、一方的かつ過剰な期待をされ、一方的かつ過剰な失望をされるということはクインシーにとって日常だった。もう自分の下の名前を他人に名乗るということはしたくなかったが、しかし人間社会においてそんなことができるはずもなく、今のクインシーは、ああ自分はずっとこの苦しみと共に生きて死んでいくのだな、と絶望的な思いを拭い去ることがどうしてもできずにいた。

 自分は世界で一番不幸な人間だ、と思っていた。例えばこの喫茶店であのウェイトレスだったりギター青年だったりスーツ男性だったり他の客たちも色々なものを抱えているのかもしれないが自分と比べれば全然大したことではないのだろうとクインシーは思っていた。おれの方が辛い、お前たちよりもずっとおれの方が辛い目に遭っている、と、クインシーは幼い頃から周囲の悩める人たちに対してずっとそう思ってばかりいた。そして実際にそれが“そうでもない”と思うに至ったことは一度もない。みんな努力の力あるいは運の力によって解決するような問題ばかり抱えているように見えて仕方がなく、クインシーは何をどうしたところで、それこそアメリカに引っ越すといったことでもしない限り自分の問題が解決されることは絶対にないと確信していたし、そして仕事の関係上アメリカに引っ越すなどということには絶対にあり得ない自分はいよいよこの絶望と共に生きていくしかないのだなという思いがより確かなものとなっていた。

 確かに誰もが何かを抱えているのだろうとは思う。しかし、一番辛いのは自分だと思っていたし、少なくとも自分は“一番辛い人たちグループ”に所属しているのはもはや間違いないと思っていた。それだけ富井クインシーという本名は彼にとって絶望視するばかりの本名であり、もうこの名前をどうにかすることはできないと今では完全に人生を諦めて世界に失望していた。おれが一番辛いんだ、お前たちよりおれの方がずっと辛いんだ——と、クインシーはいつも思っていた。そしてそんな自分に否定的なもう一人の自分も確かにいて、だからクインシーはどうにかして突破したくて仕方がなかったし、状況を打破してみたかった。しかしどうしてもその方法がわからない。結局、今ここの喫茶店のように、誰にも自己紹介をする必要のない場所、というのが彼にとって救いの場所だったし、だからレジの機能停止という事態に陥ってもこの店を中心に世界が展開していけばいいのにとファンタジーな発想が浮かぶこともクインシーにとっては良くあることだった。とにかく名前を自己紹介するというプロセスが、クインシーにとっては苦痛で苦痛で仕方がなかった。

 何とかして突破なり打破なりがしたかった。そのための手段は問わないといつも思っていた。それこそ自分に何らかの不思議な力が宿ることで今までの人生を改めて生きていくこととかそういったことができたらいいのにと夢見る気持ちがクインシーには常にある。しかし、そんな夢見る気持ちが実現したことは無論ない。クインシーはただの人間として、ただのアジア系の顔をしたアラサーの男性として、これからもこの日本という国で生活していくしかないのだな、と、“嫌な気持ち”に陥ることがどうしても止められそうになかった。つまりそれだけクインシーは自分の名前が嫌いであるということであった。

 そして今、喫茶店で文庫本を読み耽っていたが、やがてクインシーはそろそろ家へ帰ろうと思い至った。このままいつ釣り銭がやってくるのかなどいちいち待ってはいられない。待つことで世界が変わるならともかくそんなファンタジーなことにはならない。だから多少の小銭はもういい、それより早く家に帰ろうと思い、クインシーは文庫本を鞄にしまってレジへと向かう。

「あの。お会計を」

 ベルで呼び出されたウェイトレスは不安げな顔で対応を始める。

「ええと、まだ店長が戻っていなくて……」

「いえ。お釣りはいらないので。それより早く帰りたいので、お願いします」

「はあ、そうですか……。……それではお会計を始めさせていただきますね」

 と、二人のやり取りが始まり、やがて提示された金額より多めの金を出してクインシーは帰ろうとした。するとそこにスマホを耳に当てて「はい、はい?」と電話をしている中年男性も出入り口へと向かってきて、不意に体と体が触れ合ってしまい——そしてクインシーは一瞬気絶した。

 一瞬だったため気絶したという自覚がほとんど芽生えることもなく、そのまま「すみません」とクインシーが悪いわけでもないのに習慣的に謝罪してしまい、するとその男性も「いえ、こちらが」と言って、しかし急いで店の外に出て行った。このおっさんも色々抱えているものがあるのだろうが——しかし、おれの方が辛い、それはクインシーがいつも思うことであった。

 ……というわけで隆起は謎の美男子を発生源としていた高位の影響力を抹消し今日も世界を救った。ただ今日の場合、多少の痕跡が残ってしまった可能性を、どうしても考えずにはいられなかったのだったが。


 よろずやつかさへと戻り、スマホを改めて見るとワンからLINEが入っていた。

『やあワン』

『やあツー。この時間に未読スルーとは珍しい』

『世界を救ってきたよ』

『それはお疲れ様。今回もスムーズにできたのかい』

『それがやや気になることがある』

『言語化できる範囲で』

『どうも、今回、高位の影響力によって、その受け手たちに何らかの特殊能力が芽生えた、という奇跡的な可能性があるんだな』

『ほう。興味深い話だね』

『あるいはその人たちには何らかの共通点がある可能性もあるのだが、そこまではもちろんおれにはわからない』

『それで?』

『状況を鑑みるに、おそらくおれが抹消した相手からはその力も抹消されたようなのだが』

『つまり、他に影響力の及んだ人たちには、あるいは何らかの特殊能力だけが残ってしまったかもしれない、ってわけかい?』

『その通り。ハルの影響力ももちろん抹消したのだが、もしかしたら彼にも不思議な能力が宿っていた可能性がある。その自覚が芽生えることなく抹消に至ったわけだが』

『でも、そんなの大した問題じゃないんじゃないかい』

『そう思うかい』

『だって、影響力の抹消が君の仕事だ』

『そうね、そうだね。世の中に不思議がいくつだか生まれただけのこと、かもしれないね。それこそおれやサナハルカップルの力だって、そしてワン、()()()()()()どこかの誰かの影響力の結果なのかもしれないしね』

『じゃ、とにかく今回のミッションもコンプリート自体はできたわけだね。どうもお疲れ様ツーちゃんよ』

『さんきゅー相棒』

 というわけで、この世界にはもしかしたら隆起たちのような不思議な力を持った人間たちが誕生したのかもしれない。しかし、仮にそうだとしてももはや隆起にはどうすることもできないし、どうにかする気にもならなかった。なぜなら面倒臭かったし、そうでなくとも当の自分自身が“高位の影響力を抹消する”という不思議能力の持ち主なのだから——とまとめることに、やや罪悪感がないわけでもないにせよ、とにかくこの物語はここで終わるのだった。

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