第四話 アンビリバボーは洒落臭い/おれのほうがつらい・3
機械設計士である山口雄平は、時代が時代なら今頃自分はヒーローだったはずなのに、と、このIT社会を何となく疎んでいた。
子どもの頃から田舎の親戚が家業として営んでいる農業の仕事を手伝うのが好きで、中学生になってからは農業機械を少しずつ操縦させてもらえるようになり、高校生になる頃には農業に勤しみたいと思うよりも農業機械を作りたいと思うようになり、そして工学部に入り勉強を続け、そして今、設計士として活動を始めてから三年が経つ。大学院に通っていたため同期たちと比べて年齢が上であることがやや気になるところであり、そしてだからこそずっと気になるところは自分がコンピュータの操作が壊滅的に苦手であるということだった。確かに今どきはパソコンが何でもしてくれるが、実際に“する”のは人間でありつまり自分自身であり、雄平はどうしてもデジタルなものに対する抵抗感が拭えなかった。設計士を目指すようになってからコンピュータが必須であることはもちろんわかっており、だから自分自身ちゃんと日常的に苦手ながらもコンピュータと向き合ってはいるのだがなかなか上達の兆しがない。それでも石の上にも三年であり、仕事をきちんと実行すること自体はできるようになっているし納期に遅れたことは一度もない。しかし、どうしてもコンピュータ、もっと言えばネットワークに接続されたコンピュータ、を扱うことにどうしても苦手意識を拭うことができなかった。
確かにマニュアル通りにやれば何も問題がないのはわかっているのだが、雄平はどうしても“ウイルス”とか“スパイウェア”というものに対して恐怖心があり、それがどうしても上達の速度を遅らせていた。ウイルス撃退ソフトがいちいち起動する度に、それがウイルスを発見したからではなく不定期に行われる検査というだけのことであっても雄平はいちいち怯えていた。それもこれも小学生のときに家族のパソコンを勝手に使ってアダルトサイトにアクセスすることで画面からいやらしい画像が消えず、泣く泣く親に真相を告げ動いてもらうという絶望的な羽目になったという忌々しいトラウマが原因であった。
一方で雄平は、アナログに、手書きで設計図を書くことは得意だった。昔から定規やコンパスを使うということそれ自体が好きだった。もっとも今の業務でも手書きの仕事が全くないわけではないのだが、そんな仕事はほぼ個人的な確認作業として行うだけで、提出するものはあくまでもコンピュータで作成しなければならない。もし時代が時代なら、今頃はチームのヒーローとして活躍していたことであろう……と思うと雄平は虚しかった。全く、コンピュータで設計図を書くということが、もうちょっと手書きに近い感覚でやれたらまだいいのに、と思うばかりであり、故に今、たまたま仕事の休憩で寄った喫茶店でタブレットと格闘しながら、端末に直接触れる程度のアナログ感覚では自分の技術は到底活かせないと思うばかりであった。
せめてもう少し計算速度が速くなるだけでもだいぶ違うだろうに、と雄平はいつも思う。というより改善できそうな部分といえばそこだけだからと言えるだろう。雄平はいつも電卓片手にタブレットなりパソコンなりと睨めっこしている。エクセルは最低限使いこなすこと自体はできるのだが、とてもスピーディーに仕事ができるとは言えない。やはり電卓の方が確実に計算できる、と、今日も雄平は喫茶店で本来タブレットだけで完結する仕事を電卓や紙やシャーペンで行っている。
しかし、今日。
いよいよ苦労がピークに達したということだろうか。その対価を自分は受け取り始めたということだろうか。理屈はわからないがとにかく自分は気がついたら不思議な力を獲得していた。
それは“図形の面積が直感的にわかる”という能力だった。
これはその図形を見るだけで即時解答が“わかる”という力である、ということは、さっきその力を自分が得たことにふと気づいてから有益に活用している。なぜこんな不思議な現象が起こったのかわからない。あんまり数字と計算に忙殺されている日常の中、例えば何度も転ぶことによってやがて自転車に乗れるようになるように、自分は計算というものが瞬時にできる能力に目覚めたのだろうかと思ったが、しかし雄平のこの能力はどうも“面積”というものに対してのみ効果を発揮するのようだった。だからその中途半端かつ選択的であるという点で雄平はこの能力の開花に怪訝な気持ちがもちろん浮かばないわけではなかったのだが、しかし今この瞬間そんなことはどうでも良くなっていた。確かに計算の全てにおいて能力が発揮されるわけではないようだったが、図形の面積を瞬時に割り出せるというのはそれだけで意味のあることであり有益なことであった。もちろん、直感的にその解答が正しいことがわかってもそれでも計算をしなければならないことは間違いないのだが、しかし解答がわかった上でエクセルなり電卓なりを動かすということは雄平が思っていたよりも楽なことであり、故に先ほどから雄平は少なくともいつもと比べれば仕事をスムーズに実行することができていたのだった。
あるいはこの能力をこのまま鍛えていけば、そのうち自然にあらゆる計算において直感的計算というものができるようになるかもしれない、という密かなときめきを抱くようになっていた。確かに不思議な現象が自分に発動したことに対する不安もあるのだが、しかし、一旦能力を使いこなすようになるともはやそれが元々自分に備わっていた力のように雄平には思えてならないし、あるいは元々自分に備わっていた力がいよいよ発揮されるようになったのかもしれないと思えてならなかった。したがって今の雄平は選ばれた者として不安といったファンタジー的な思考に展開することもなく、図形の面積を割り出す必要が生じる度にワクワクしながら業務を遂行している。おおよそ同期の奴らと比べて三歳も年上で、しかし三年も働いているのになかなか思ったような上達ができず、同期の年下どもは、でも、だいぶ速くなってますよ、などと労りの言葉を投げかけてはくれるがだからこそ馬鹿にされている気がしてならなかった。お前たちはコンピュータに抵抗も苦手意識もなくていいな、それに比べておれはいつまで経ってもうまくならない、手書きならいくらでも速くやれるというのにこのIT社会のせいでおれだけが大変な目に遭っている、いつもそういった暗い情熱に包まれていたが、今の雄平は不思議な計算能力を獲得したことでそういった言葉も浮かぶことなく、むしろだからこそ今日のこの日から生まれ変わったことで周囲の人たちにこれまでよりもっと優しくなれそうな気が雄平にはしていた。そしてそれは気がするだけではなく形として表さなければならないな、と思っていた。同期たちのことを恨んでいるなどということを流石に悟られているとは雄平は思わなかったが、しかし、これまでの“反省”を糧に、彼らともっとチームとして——あくまでも職場の人間としてという意味ではあるが——仲良くやっていけたらいいな、と、今の雄平は優しい気持ちに包まれていた。
というわけでスムーズかつスピーディーに優しさに包まれながらタブレットを動かしていると、「あっ」というちょっとした大きな声と共に、自分のテーブルのそばでなかなか盛大に水をこぼした中年男性が現れた。何だろう、と思うと同時に、おそらくこのおっさんは水のおかわりが欲しかったのだろうと想像した。それはウェイトレスを呼べば完結することだろうに、なぜこのおっさんはそれにしても水のそれなりに入ったコップを手にウェイトレスの元へと移動を開始したのかが雄平には謎だった。ただ、あわわあわわと慌てながら床にこぼした水をハンカチで拭き始めたおっさんに事の詳細は結局のところわからないまでも今優しい気持ちに包まれている雄平としてはどうしても助けの手を差し伸べたくて仕方がなくなり、そして半ば自動的にナプキンを大量に取り出して一緒に床を拭き始めた。
「あ、どうもどうも。ご迷惑おかけして」
「いえいえ。お互い様ですよ」
「あ、ナプキン、いただけますか」
「どうぞ」
と、雄平はナプキンの束をその中年男性に手渡し、そこで手と手が触れ合い——一瞬気絶した。
「えっ」
一瞬とはいえ気絶なのは間違いないので、雄平はどうしたんだろうと不安な気持ちに陥った。しかし気絶とはいえ一瞬なのも間違いないので、ちょっと仕事のストレスやらプレッシャーやらに押し潰されていたことで疲労が溜まっていたのだろうか、近いうちに健康診断があるからそのとき何事もなければいいな、と思った。
そのうちウェイトレスが事態に気づき、わたしがやりますから、と言う頃には水はだいぶ拭き取ることができ、どうもすみませんねぇ、などと言いながらそのおっさんはウェイトレスにお冷のおかわりを、と言って、はい、と頷いたウェイトレスを確認した後、元いたテーブルへと戻り始めた。よし、これで事態の収拾はついたようだな、と思い、雄平は改めてタブレットと向き合ったが——しかしそのとき、面積がわからなくなってしまっていた。
「面積が、わからなく……」
「ん?」
と、そのおっさんが何やら怪訝そうな表情をしたので、雄平は、
「いえ何でもないです」
と早口に言ったので、彼としては何でもないことはないだろうが自分には関係のないことだとおそらく思っただろうと雄平は思い、そのうちおっさんは元いたテーブルへと戻っていった。
今、床にこぼれた水を拭き取るということをしたほんの束の間で、開花したはずの能力が消滅したことにやがて雄平は気づいた。と同時に、本当にさっきまで“直感的に”弾き出してきた正解たちが本当に正解だったのだろうかと一気に不安になり電卓と格闘し始めた。その結果、それらは確かに正解だったということはわかりホッとしたが、となるとなぜこの不思議能力が突然消滅したのか、雄平は疑問が消えない。
——しかし、突然出現した能力であるのであれば、突然消滅することも不思議なことではないだろう、と、雄平はやがてそう思うに至った。であるのであれば、またこの不思議能力が突然出現する可能性は決してゼロではないし——その可能性込みで、やはり自分は計算速度が速くなるだけでだいぶ仕事をスムーズに遂行することができるようだという確信を得て、だから雄平は、いずれまたこんな不思議なことが起こるかもしれないが、だからこそ今のうちから計算速度を速めるための訓練みたいなものがあるなら、それを探してそれを実行しよう、と考えた。
不思議な力、と思ったし、ほんの束の間とはいえ不思議な力を活用した上で働いていたわけだが、しかし生来コンピュータが苦手な雄平としては、あるいは不思議なことが起こることもあるのも世の中だ、という風に元々この世界に対して抱いていた感想を改めて抱き、あるいはちょっと点と点が結ばれたことで不思議能力という線が定規で引くように引かれたのかもしれないと思い、そして自分自身の計算速度のアップという目標が芽生えたことでこの不思議能力はもう必要なくなったということなのかもしれない、と思ってみると、そのうち、目標が芽生える前に力が消滅したという事実関係がいつの間にか逆転し、やがて自分の機械設計士としてステップアップとして必要な出来事だったのだ、と思うようになった。とにかく雄平は一瞬の奇跡の発動によりこれからの仕事人生がより良くなるような気がし始めていたし、また、職場の同僚たちに対してもっと優しくしてあげられるようになりたいという思い自体は間違ってなどいないはずだと感じていた。そうだ。自分はこれからきっと、もっとより良くやっていけるに違いないという確信を、今や雄平は天啓のように感じていた。
そんなわけで一瞬の奇跡ではあったが、しかし原因も理屈も脈絡もわからないことである、やがてこのようなことが起こる可能性は充分にある、と感じながら、そのために日々頑張ろうと決意し再び雄平はタブレットとの睨めっこを再開するのだった。
「わかった。あのきれいな顔の男の人だ」
テーブルに戻って隆起は今雄平から抹消した影響力の分析を即座に行い、今回の高位の影響力の発生源を突き止めた。隆起たち四人の視線の先には文庫本を読んでいる美男子がいる。




