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第四話 アンビリバボーは洒落臭い/おれのほうがつらい・1

 影響力。それは人間の証明。


「——申し訳ございません。今、急いで銀行に向かっていますので……」

「いやだって、レジの鍵なんて付けっぱなしが当たり前だろう?」

「それが……いつ紛失したのか、さっぱりわからなくて……。とにかく今、どうしても小銭を出すことができなくて、お釣りの計算ができなくて、大変申し訳ございませんがもう少々お待ちいただけますか……?」

「全く……ついてないなぁ」

 やがてレジでウェイトレスに文句を言っていた男は渋々元いたテーブルへと戻っていく。確かにこの後急ぎの用事があるわけではないが、そういう問題ではない、待ちぼうけを喰らわされるというのはそれだけでいい気分がしなかった。

 というわけでそのウェイトレスは今店のドアを開けて入ってきた客に説明する。

「いらっしゃいませお客様。お客様、大変申し訳ございません。今、レジの不具合で注文の受付ができない状況で」

「ああ、いえ。待ち合わせなんです。それなら何も頼まないので」

「そうですか……かしこまりました。二名様ですか?」

「そうです。えーと……おーハルに紗夏ちゃん。それじゃ、お姉さんも大変ですね」

「ありがとうございます」

 そして店にやってきた隆起と司は晴翔と紗夏の座っているテーブルへと向かっていく。


 ……この喫茶店でウェイトレスのアルバイトをしている小早川美穂こばやかわみほは、レジに付けっぱなしだったはずの鍵は一体どこへ行ってしまったのだろうと本当に疑問だった。この鍵を抜き差しできるのは店の人間だけである。しかし店員は誰も鍵の所在を知らず、美穂が気づいたときにいよいよ問題が発覚したのである。店員に原因があるのではないのなら客の誰かの悪戯もしくは犯行ということになるが、しかしそれならそれで何のために鍵を盗んだのか皆目見当がつかない。しかし、そんな事情は客たちには関係ないことであり、今、店長が急いで銀行に行って両替をするべく動いている。その金は店長の自腹によるものであるが、最終的にレジを開けることができればそこは問題ない。とにかく店長としては動かない訳にはいかない緊急事態だった。

 というわけで、喫茶店は今、事実上の出入り禁止状態となっていた。鍵の件が発覚して来、客の中で「釣りはいいから」と言って帰っていく者は今のところ一人もいないし、やってくる客もさっきの中年男性二人組を除いて注文受付ができないという美穂の説明を受けてまで店に滞在する気にはならない。何とか店長には急いでもらいたい、と、美穂はさっきから客への説明のためテーブルを巡り、小言を言われることがストレスだった。

 しかし小言を言われること自体はストレスであったが、今日の美穂のストレスの種類は普段とやや異なっていた。

 美穂は若干、聴覚情報処理障害の気があり、人の話を聞くということがやや大変な人生を送っていた。病院で正確な診断を受けたわけではなくあくまでネット情報ではあるのだが、この障害について書かれたサイトをあるとき発見して「自分はこれだ」と美穂は確信した。とにかく人の話を聞くということに関して、美穂は幼い頃からそれがすごく苦手だった。確かに聞いているし、はっきり聞こえている。何を喋っているのかもわかっている。ただ、例えば「Aをやって、そのあとBの場所に移動して、Cというアイテムを持ってきて……」という説明を、一度聞いただけで理解することが美穂には滅多にないことであった。どうしても一番最初の説明だけが頭に残り、後はぼやけ、やがて最終的には「命令をされた」という事実だけが残ることになる。美穂の経験上、同じ説明を二回以上されるといよいよ理解できるのだが、とにかく複数の情報が一度に並べられるてしまうと、美穂にとって彼女のその特性上それを一回で全て把握することは至難の業であった。

 ただ、視覚的に文章で表現されると、美穂はそれを読解することはむしろ得意中の得意であった。だから美穂としては自分に対する説明や命令や希望はできる限り文章で表してほしいと思うところであったが、しかしその切実なる願望は叶わない願望であるとも諦めていた。状況にもよるのかもしれないが人はいちいちペンと紙を持つことはないのだから。例えばこの喫茶店のウェイトレスという仕事で、スマートフォンで自分に注文をしてくれるような変わった客はいたことがないし、いればいいのにとも美穂は望まない。とにかく叶わぬ願いだと思っていたし、一方で喫茶店のウェイトレスというアルバイトは子どもの頃からずっと憧れていたアルバイトだったため、聴覚情報処理障害の特性を持つ美穂としては大変な思いをしながらも真面目な勤務をしている。

 しかし、今日。

 ふと美穂は、自分が人の発語を文字として認識していることに気づいた。鍵の件が発覚する前からなのか発覚した後からなのかはちょっと思い出せない。とにかく、今日、アルバイトをする中でふとそれに気づいたのだ。

 これが異常事態であることは無論美穂はわかっているし、気づいた段階で自分がとんでもないファンタジーな存在に変身してしまったのではないかという危機感やら恐怖感やらが全く生まれなかったわけではない。しかし、耳で聴くのが苦手である自分が、その発語を文字として“読む”という能力に目覚めたことは、一見普通に勤務しつつ美穂は感動的体験に包まれっぱなしであった。

 なぜこんな奇跡が起こったのかわからない。あるいは超能力的な第六感が芽生えたのか。あるいは、聴覚情報処理障害の困難さがピークに達したことで感覚的に対処方法が生まれたのかもしれない。とにかく美穂はさっきから人の話を文字として処理しており、それ故普段よりも仕事をする上でストレスを感じることが少なくなっていた。無論、鍵の件もあり、客たちに小言を言われ続けることは確かにストレスだったのだが、文章の形として表されることでそのストレスはかなり軽減されていたのだった。

「すみませーん」

 という声に反応して、美穂はそのテーブルへと向かっていく。するとその声の主は今やってきた中年男性だった。

「お待たせしました。その、ご注文は……」

「ああ、いえ。水を二つくださいな」

「あ」と美穂はやや口を開けた。「すみません。ただいまお持ちいたします」

「はいはい」

 と言って美穂は厨房へと向かっていく。うっかりしていた。レジの機能停止という異常事態と聴覚情報文章化能力という不思議な出来事で、店にやってきた客にはまずコップの水を差し出すという当たり前の業務をすっかり忘れてしまっていた。厨房で一人のウェイターが「お客さん入れたの?」と美穂の対応を疑問視したので当然美穂は「待ち合わせだそうです。注文はしないということです」と答え、「あー了解」と彼は返答する。いつもだったらこの程度の情報も処理する上で精神的に負荷がかかっていたものだが、今日は「お客さん入れたの?」という言葉が文字として自分には表現されていたためストレスもほぼ感じず事務的対応をすることが可能となっていた。

 というわけで美穂は二つのコップにそれぞれ冷水を入れ、そのテーブルへと向かっていく。

「大変お待たせいたしました」

 と、美穂はトレイからコップを手に持ち、向き合って座っている中年男性二人に渡そうとしたら、声をかけてきた方が「あ、わたしがわたしが」と手を伸ばしてきたことでコップを持った美穂の手と触れ合ってしまった。

 ——そこで美穂は一瞬気絶した。

 一瞬だったため、水をこぼすなどという事態にはならなかったし自分が気絶をしたという自覚も薄かった。とにかく、「あ、すみませーん」というおっさんの一言で我に帰り、やがて美穂は仕事を終えて厨房へと戻っていく。

「それにしても銀行の両替なんて時間かかるんだろうねぇ」

 というウェイターの言葉を聞いて——美穂は、あれっ、と思った。

 聴覚情報が……文字に変換されない?

 どうして? さっきまで、ほんの束の間とはいえ確かに自分の頭の中では文章として表現されていたのに? どうしてこの先輩ウェイターの今の言葉があくまでも音としてしか表現されないの? なぜ……?

「ん。どしたの」

「あ。いえ。何でも」

「うーん、それにしてもこうなってくると、暇は大敵だよなー」

「あ。はい。ええ、そうですね……」

 ……一瞬の奇跡が、何の因果か小早川美穂という一人の人間に起こっていただけで、気がついたとき魔法が解けた——ということだろう、と、美穂は今、能力の消えた今、思う。

 しかしその一方で美穂は、これから聴覚情報はできるだけ頭の中で文字に変換すれば良いのではないか? という思いが芽生え始めていた。そうだ。不思議な魔法自体は消えてしまったが、このテクニック自体はやり方次第で活かせるはずだ。確かに努力や工夫の必要なことではある。しかし、このテクニックを自分なりにテクニックとして利用することができれば、自分の聴覚情報処理障害を受け入れながらもより良く生きていけるのではないかという思いが、つまり今の美穂には完全に芽生えていた。今はもちろんまだまだ上手にはできないだろうしこれから苦労の連続であろう、しかし、方法論を思いついたということは美穂にとって救いのように感じられることだった。というわけで、こうして一瞬の奇跡が終わることは美穂のこれから先も続いていく現実の世界の戦いに挑むに当たって大いなる力を与えた。そして美穂はこの発想が思い浮かんだことにより、「自分だけが大変な目に遭っている」という感想もほどほどにしなければならないな、と、どこか冷静に思うようになっていったのだった。


 よろずやつかさでダラダラと過ごしていた隆起と司は、おそらくは高位の影響力による電撃多発という異常事態の発生を紗夏と晴翔からの電話で知り、急いで二人のいるその喫茶店へと足を走らせた。司はともかく普段運動の習慣のない隆起はそれだけでなかなか疲労困憊であったが、高位の影響力が万が一暴走でもしているのだとしたらそれを何とかできるのは自分だけだというそれなりにある信念のもと、何とか司の足手まといになることもなく目的地へと辿り着いた。

 テーブルで隆起は紗夏に訊ねる。

「電撃多発っていうのは、どういうことだい」

「テーブルでやたらと、その、影響力関係の電撃みたいなものが見えて……全部のテーブルじゃないんですけど、でも次々と」

「となると、おそらくは今のウェイトレスが原因だな」

「ってことは、あのお姉さんが今回の高位の影響力の発生源?」

 という晴翔の質問に隆起は「いいや」と答える。

「今、彼女の影響力を抹消したが、彼女の影響力は彼女のものではなかった。発生源は別の客だ。つまりその本体たる客の高位の影響力を受けた彼女がウェイトレスとして各テーブルを回ることで周囲に次々に伝播したということだ」

「じゃ、お客さんがみんな影響を受けている?」

「全員ではないがね。紗夏ちゃんの電撃認識がそれを表しているが、高位の影響力とはいえものの影響を受けにくい人というのももちろんいるから」

「で、どうする」

 という司の質問に隆起は「当然だ」と答える。

「何とかして発生源を突き止めてその主に触れなければならない」

「そんなことができるかね? さっきのウェイトレスは事故ということで片付けてもらえたとして、無関係の客同士が触れ合うというのはなかなか不思議な事態だろ。もし女性なら尚更無理っぽくないかい?」

「いや、こーの。そんなことは言っていられない。なぜなら……これがおれたちよろずやつかさの仕事だからね。現にこーのにはもう既に働いてもらってるしね」

「あ、じゃ、レジの鍵って。お釣りが出ないっていうのは?」

 という晴翔の言葉に、おじさん二人はにやりと笑った。

「ま、ここの喫茶店のご店主もね、こーののためなら動かざるを得ないってね」

「それでツーちゃん。今の抹消で何かわかったことはあるのかい」

 うん、と、隆起は答えた。

「差し当たり男性であることはわかった。それだけあのウェイトレスのお姉さんからすればお客さん一人一人の情報なんてどうだっていいってことだね」

「でもそれだけじゃ……」

 と心配そうな紗夏に、隆起は下手くそなウインクをする。

「まあ見てなさい」

 とはいえ……紗夏からすれば、自分自身が周囲の人々に電撃を見続けるという異常事態は確かに起こったにせよ、相変わらず高位の影響力というものの存在自体が疑問なのだった。

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