第三話 アイラブユーがなんのその/みんなたいへん・6
電車の中。今日は何だか混んでるなぁ、と、藤子はちょっとイラついた気持ちでいた。休日の電車は混んでいるとはいえ、平日の通勤ラッシュと比べれば苦痛を感じるレベルの満員電車ではないはずだ。それが今日、明雄の家に初めてお邪魔するというこの日になかなかの満員電車であることが、ちょっと幸先が悪い、という感覚を藤子は持ってしまった。最もそんなことは明雄と会って明雄の家に行って、おそらくは明雄の描いた数々の絵を見て、おそらく自分は見る絵見る絵に感動して、そして、その後……ということを想像するだけで、大したことではない、とすぐに思うことではあった。
それにしても混んでいる。今、自分の目の前にいる中年男性は今にも自分に触れそうであった。それも不可抗力であることがわかっていたため藤子としてはもどかしい。痴漢の心配もあるわけだが、とにかくそれが不可抗力とはいえ見知らぬ男に体を触れられる事態はぜひ避けたいところであったが、しかしこの満員電車ではそれも時間の問題であろう、と、藤子は思っていた。
だが、『みんな大変』なのだから——このおっさんだって、痴漢冤罪の心配もあるだろう。それもありこの男は万歳のポーズをして、自分が危険人物ではないということをすぐそばにいる自分にアピールしているように藤子には思え、だからこそ不可抗力とはいえ自分との身体的接触なんていう事態にならないように自分は自分で最大限気をつけなければならない、と、藤子は思った。
そう。『みんな大変』なのだ。誰だって満員電車でぎゅうぎゅうに押し込められていたら、小さなこと些細なことでも怒りの感情が芽生えても致し方ないことだと藤子は思っている。こんな満員電車の中で、例えば赤ん坊が大声で泣き喚いたりし始めたら、無論難癖はつけないにしろやはりどうしても嫌な表情になることは自分なら避けられないはずだと藤子は思っていた。こんなぎゅうぎゅう詰めの満員電車をほったらかしにしておいていることがそもそも問題であり、赤ん坊が悪いわけでももちろんなければ嫌な表情になってしまう人々が悪いわけでもないはずだと藤子は思っていた。だからこそ、『みんな大変なんだから』という思考が有益に機能する、と、藤子は思う。みんな大変なのだ。仕事に家事に育児に勉強に——みんな忙しい日常を忙しなく過ごしている。だからこそ、そんなに他人に対して攻撃的になってはいけないし、自分自身を必要以上に責める必要などもない、そういう考え方として藤子は『みんな大変』という発想を幼い頃から大切にしてきた。結果的に、例えば生徒たちが「もっとわたしたちの話を聞いてください」と不満げなことも承知ではあったが——しかし最近になって自分の熱意が彼ら彼女らにも伝わったのか、みんな、『みんな大変』の感覚を共有し始めたように藤子には思え、それが藤子にとっては喜ばしいことだった。生徒たちが自分のことを「不二子ちゃん」と呼んでいることは、もちろん直接そう呼ばれている藤子にとって嬉しいことであった。幼い頃から峰不二子に憧れていた。あんな強い女と名前の読みが同じで、親には感謝している。そして強い女とはやはり、優しい女であるはずだと藤子は思う。自分の強さや優しさとして『みんな大変』という言葉と性質が機能しているのかどうかまでの自己分析は藤子はできていないが、しかし、自分は決して悲劇の主人公となってはいけないし、あるいは峰不二子は決してそんな態度は取らないはず——この地球上の人間たちは『みんな大変』なのだから誰にもその資格はないと思っていた。だから自分は、「不二子ちゃん」としての自分を大切にしていけたらと思う。その結果、誰もが自分の人生の主人公になれたらいい、例えば生徒たちにそう教えることができたらいいと、そう思うのだった。
そう、だから、『みんな大変』なのだから——だから、自分だけが悲劇の主人公ぶってはいけない、と、藤子はつくづく、そう思うのだった。
ガタン、と、電車が大きく揺れ、仕方がないとはいえ、不可抗力であるとはいえ、というわけで目の前の中年男性と自分は接触する事態に陥ってしまい——そして、なぜか一瞬、藤子は気絶した。ほんの一瞬だったが、それは確かに気絶であり、だからその中年男性の「すみません。……大丈夫ですか?」という心配そうな表情の声かけを素直に聞くこともでき、大丈夫ですと答えながらちょっと疲れているのかもしれない、という思いが湧き上がってきて、つまり自分はちょっとした疲労で気絶してしまったのかもしれないと考えるようになった。だから、生活改善をした方がいいのかしらと思うようになった。まさか今この瞬間、自分の持つ“高位の影響力”が目の前のおっさんである隆起によって抹消させられ、自分が世界にとって危険な人物ではなくなったなどという摩訶不思議な発想が藤子に浮かぶはずはもちろんなかった。
やがて電車は目的地へと辿り着き、藤子と共に隆起は電車を降り、待ち合わせをしている明雄のもとに藤子が駆け寄ったところを確認し、やがて隆起は適当にその辺の椅子に座って司にLINEをした。
『目的達成なり。満員電車の構成員たるエキストラの皆さんにはぜひたっぷりギャラを』
『了解』
というわけで、今回も隆起と司は見事世界を救済した。
明雄の住むアパートへと二人で並んで歩き、会話をして、藤子は何だかよくわからないが明雄に違和感を覚えていた。この違和感は何だろう? 少なくとも嫌悪の感情のような否定的なものではない。明雄の日常にちょっとした変化があったのだろうか、それが自分のせい、などという変化ではないといいのだけれど、と思いながら、藤子は明雄の全力かつ真剣な“相手を楽しませよう”という努力と配慮を心地よく感じていた。そして、やがて二人はアパートへと辿り着く。
「ここです。狭い部屋ですけど、できるだけ掃除したので……」
「わたしの家だって適当ですよ」
ふふ、と、藤子は微笑む。そもそも美人な藤子である、明雄だって彼女の魅力に充分ときめいていた。
というわけで、二人は部屋に入る。
アパートの中は、見事に“できるだけ”掃除をしたようで、一通り家事のできる藤子としては、わたしが助けてあげないと、という発想が浮かぶのは将来のことを計画している彼女としてはある意味当然であった。
というわけで、ちょっとした会話を交わし、二人は明雄の自室に入る……。月の絵が至る所に置かれ、感動しきりの藤子に、明雄はどこか真剣な表情で話し始めた。
「あの。月形先生」
「はい」
「ぼく、さっき、駅で先生を待っている最中に……やっぱり自分に正直にやっていこうと思うようになって」
「? いいことなんじゃないでしょうか」
「みんな大変な思いをして生活してるんだから、自分の思いというか……やりたいことを我慢するっていうのも必要なことだと思ってたんです、ここのところ。でも、やっぱり、やりたいことを我慢するって言っても、どうしても我慢できないことだってあるわけで——あ、もちろん人様の迷惑にならないような配慮はもちろんするわけですけど、でもやっぱり、『みんな大変なんだから』っていうのは、それは……自分を殺す理屈にはならないよなぁ、って、本当に、さっき駅で待ってる最中に、まるで天啓のように降りてきて……」
「???」
何やら長台詞である。しかし分析するに——どうも明雄には「どうしても我慢できないこと」があることが推測でき、藤子はやや不安な気持ちになった。
そんな不安な気持ちになった藤子をこれ以上不安にさせてはいけないと思い、明雄は、クローゼットに突進し、扉を開け、中にあった服を取り出しそれを藤子に見せた。
「……えっ……」
と、藤子はやや絶句する。
その服はリボンやらレースやらフリルやらのついたかわいらしいドレスであった。
「ぼく、ずっと女の子になりたくて」
「えっ」
「母が施設暮らしになってから、本格的に女の子の格好で家で過ごすことにして、もう止められなくて……。あ、一応なんですけど、ゲイとか、トランスジェンダーとか、そういうことじゃなくて、単純にかわいい女の子の格好をするのが好きなんです……変態とかじゃ、ないんですけど……」
「えっ。えっ」
「みんな大変なんだから、だから恋愛とか結婚とかっていうことをするに当たって、卒業しなきゃいけないのかなぁと思ってたんですけど——でも」
「……はあ」
「……ぼく、家の中では、女装がしていたくて。そんなぼくでよければ」
やや固まって、そのドレスのようなネグリジェのようなワンピースを眺めて、しばし時が経ち、やがて藤子は口を開いた。そして、これが明雄にとって別れのセリフとして決定的に機能したようだった。
「……岩田先生の趣味は、尊重はできるんですけど、理解や共感は、ちょっと……」
……というわけで、世界の救済と同時に、藤子のここのところ続いた一連の恋物語はこれにて終焉を迎えるのであった。
紫乃の淹れてくれたお茶を飲みながら隆起はワンとのやり取りを楽しんでいる。
『岩田教諭は女装が好きみたいでね。秋葉原の女装カフェに通うのが趣味らしい』
『いいんじゃないかな。素敵な趣味だと思うけど』
『しかし理解はされにくいだろうね、他人からは』
『だからこそこっそりやってるわけで、何の問題もないだろ?』
『こっそりやってる分にはね。恋愛とか結婚とか共同生活ってなるとこっそりでは済まない。まあ不二子ちゃんが受け入れるかどうかまではわからんけども』
『でもま、不二子ちゃんは強く優しい女だしね。ルパンの不二子ちゃんなら受け入れてくれそうな気はするが。何となく条件つきで〜とか』
『果たして自分の望む自己像を月形藤子先生がどこまで目指せるか、という話になるんだろうかね、今回』
『まあ、そんなこんなで世界を救った感想を一言』
ワンからのリクエストに、隆起はちょっと考えて、やがてスマホをいじる。
『みんな大変とは言うけれど。今、わたしは、わたしの話をしているのですよ。……ってところかね』
『さんきゅ。それじゃお疲れ様、相棒』
『お疲れ様』
『こーのにもよろしく』
『おっけ』
そしてこのやり取りは終わりかな、と思った矢先、ワンから最後のLINEが入ったので、隆起はその文面を読んでちょっと苦笑しながらスマホを閉じるのであった。
『君も、周りに、君の話をした方がいいよ——“君の話”を、ね』




