第二十六話 氷結の沸点
「アイレン」のすぐそばに存在する森林。普段から村に住まう者達にとっては憩いの場でもあり、貴重な自然の恵みを享受できる場でもある。
そんな森の中で、落ち葉を踏みつけながら走っていく影が一つ。その陰の主は自身の体力が尽きることも厭わずに動き続けている。
「はぁっ…はぁっ…」
荒れ始めた呼吸を自覚しながらも、その歩みを止めることはない。今立ち止まってしまえば、それだけ仲間の命が尽きる可能性が上がってしまう。
徐々に重くなっていく足に鞭を打ち、走る。何とか森までたどり着いたが、肝心のものは見つけられていない。
「この辺りにあったはずだけど……なくなってる…」
昼間確認したときには、ここにあることは覚えていた。だが今来てみれば、『カラタケダケ』はきれいさっぱりなくなっている。
それに加えておかしいのは、ここら一帯の素材まで消えているように思える。
「私たちが去った後に誰かが採っていった……ってわけじゃなさそうだね」
別にここを訪れるのはリンカ達だけというわけではないのだ。他人に目当てのものを持っていかれてしまうということがあってもおかしくはない。
だがリンカの目の前に広がっている、地面が踏み荒らされいくつかの木も折られている光景は、明らかに何らかの者の手が加えられている。
「一体誰が……この足跡は………?」
少しかがんで見てみれば、荒らされた地面の中に人間と比べればはるかに大きな足跡が残っている。
「人のものではない……だとしたらこれは……!」
その正体におおよそ行きついた瞬間、背後から地を踏みしめる音が聞こえてきた。
「まだこの周辺にいたんだね…ほんと面倒くさいなぁ…」
振り返ればそこにいたのは、一体のオークだった。
オークは本来、群れで行動するモンスターだ。その群れの規模にもよるが、場合によっては集落を形成し狩りや人間を襲撃しながら暮らすこともある。
一体のみならばそこまでの脅威ではないが、集団ともなると話は変わってくる。
何せオークの最も脅威とされているのは、その繁殖力だ。
放っておけば一週間ほどでそれなりの規模のコロニーを作れてしまうほどに数を増していくため、見つければ即座に討伐をするように周知されている。
過去の例を遡ってみれば、オークの集落をうっかり放置してしまったがために壊滅的な被害を受けた記録なども残されている。
そんな理由から、オークは人々から害獣と認識される存在であり、強く嫌煙されている。
現在リンカの目前に佇んでいるモンスターはそう言った手合いであり、本来であれば即刻対処をするのがセオリーである。
それでも、リンカは動かない。恐怖で動けないというわけではない。
ただ心に沸きあがってくる感情が、目の前のモンスターへの認識を歪ませる。
(普通なら集団で襲ってくると聞いていたけど……群れを追い出されでもしたのか……あるいは、これから群れを作ろうとしている個体かな…)
もし前者であれば、面倒なんてものではない。この近場に集落が存在している可能性があるということなのだから。
できれば後者であることを祈りたいが、そんな余裕もない。彼女には成さなければならないことがあるのだ。
(どっちでもいいか……とにかく重要なのは、こいつが私の邪魔をしているということだけだし)
ふつふつと沸きあがってくる怒りが、心を覆い始める。常日頃から冷静さを保つように心がけているため、怒りに思考が乱されることはないが、それでも怒りが沸かないというわけではない。
そんな様子で動かないリンカを恐怖ですくんでいるとでも思ったのか。オークは彼女を苗床とでも思っているのか、興奮した面持ちで近づいてくる。
………それが最悪手だと、気づくこともないまま。
「私はさ、そんな怒ることってないんだよね」
オークに聞かせるように、されど独り言のように。内心を吐露するように漏れた言葉をオークが理解することはない。
「私が怒るのは、私にとって大切なものを傷つけられたとき。…それだけは、見過ごせないから」
眼前にいる獲物が、巨大な獅子だと気づくこともできず、オークはそれに手を出してしまった。
「…だから、この遭遇が偶然のものだったとしても」
そこでオークは初めて気づいた。この人間の瞳に自分が映っていないことに。……眼中にすら入っていなかったことに。
「大切なものを傷つけようとするお前を、許さない」
獅子の尾を踏みつけた愚か者は、その怒りを一身に受けることとなった。
「《天氷牢》」
開戦の火蓋を切ったのは、リンカによる魔法《天氷牢》。
突如として出現した、自分を取り囲む檻に困惑した様子だが、すぐに破壊しようとその剛腕を叩きつけている。
「ブモッ!?バオオオオオオオオッ!!」
だが、その程度ではビクともしない。これで突破されるほど甘い構造にはしていない。
「無駄だよ。本来なら複数人を閉じ込める《天氷牢》を、君一人だけを対象として圧縮してある。……まぁ、10分くらい頑張れば壊せるんじゃないかな?」
相手にとっては絶望としか思えないようなことを淡々と伝える。
より正確に言えば、炎属性が使われればすぐに溶かされてしまうが…普通のオークがそんな大層なものを持っていないことは知っている。
ゆえに、このオークがすぐに脱出することは不可能なことだ。
「君が抜け出すのを見ていてもいいけど……あいにく時間がないんだ。もう終わりにさせてもらうよ」
こんな相手に時間をかけるのも惜しいと言い放ち、ケリをつけにかかる。
「ごめんね。…《千寒刃》」
魔法名を宣言すれば、空中に無数の氷の刃が現れる。
「ブッ、ブモォ!?」
そしてそれら全てが自身に向けられている事実に、嫌な未来を見たオークはこの牢獄から抜け出すためにより一層力を込めて殴りつける。
「無駄だって言ったのに……諦めてくれた方が楽だったけど仕方ないね」
現実は無情であり、その檻が破れることはなかった。とうとう浮かび上がっていた氷の刃は、その真価を発揮しにかかる。
「……ばいばい」
「ブモオオオオオオオオオッ!!」
自身の身に降りかかってくる刃が肉体を刻み付けていく。あまりの苦しみに苦悶の声を上げるが、その勢いが弱まることはない。
命の灯が消えかける瞬間に目にしたのは、獲物だと認識していた者の冷酷な眼差し。
自分は狩る側だと認識していた。だがこれだけの差を感じれば理解はできる。
結局自らは狩られる側でしかなかったことを。立場を履き違えた者が上位者に喧嘩を売れば、こうなることは必然だったというのに。
光の塵へと変貌するまで刃が止むことはなく、彼女が手を緩めることも決してなかった。
本気でキレたリンカさん。
普段怒らない人ほど怒ると怖いし、淡々とその情念をぶつけられるのはもっと怖い。
他人の嫌がることはやめよう!ってことです。
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