3-3.魔の気配
ココアを口に含み、ゆっくりとそれを喉に流してから、ミルキィは改めてカップをカウンターへ置いた。
「知ってる。少し前に助けていただいた精霊様」
「そうだったんだ。ぼくとススも、ずっと昔からお世話になっている方なんだ」
ググも持っていたカップをカウンターに置く。
「それこそ、幼い頃からね。ぼく達の祖になる魔族の番――その頃からずぅーと、何かと目をかけてくれてるって話」
ミルキィへと向けていた顔を戻し、虚空を眺めながらググが呟いた。
「……なんか、途方もないよね」
部屋で回るシーリングファンの音だけが静かに聴こえる。
ミルキィはどう反応をすべきなのかがわからなく、ただシーリングファンの音が沈黙を埋めていくのを待つしかなかった。
くん、と獣の声がミルキィからもれてしまった頃、ググがやっと彼女を振り向く。
「ごめん。変な空気にさせた」
ググは寄りかかっていたカウンターから身を起こすと、飲み干していたらしいカップを手に持つ。それをシンクに入れて、彼はミルキィを見やった。
「頂き物なんだけど、美味しいお菓子があるんだ。奥から持ってくるから、食べよっか」
お詫びね、と苦笑をしてから、キッチンカウンターの横にある部屋へ取りに行った。
残されたミルキィは、ふう、と一つ息を吐いて、ぐっと組んだ手を上へと伸ばしていく。
軽く身体をほぐしたのち、すっかり冷えてしまったカップのココアを見つめる。
ググが何を思ったのかはわからないけれども、ググ達とティアの繋がりを知ることはできた。
それならば、ミルキィの中で答えを弾くことも可能だ。
ミルキィはバロンやプリュイと関わりを持った。ゆえに、気にかけてくださったのかもしれない。
ミルキィはそう結論付けることにした。
◇ ◆ ◇
行きも屋根伝いならば、帰りも屋根伝いだ。
アウターを羽織り、フードを被ったミルキィは、足下に消音魔法の陣を展開させ、暮色の空を背にまた一つ跳躍して屋根から屋根へと跳び移った。
トートバッグは落とさぬようにしっかりと抱える。
暮れの時間帯ともなれば、ちらほらと家路につく人々の姿もあり、眼下の通りの流れは住宅が多く並ぶ住宅地区へと向かう。
ミルキィもその一人だ。
「支部に寄ってみようかとも思ってたけど、こんな時間になっちゃったしなあ……」
暮色の空を見やり、夕陽の眩しさに目を細めて苦笑する。
「出直そう」
支部へ立ち寄るには、迷惑となる時間帯だろう――そう思った自分にまた苦笑する。
周期的に訪れる耳や尾の発現時期に支部へ行くのとは別に、気の向くままに自分のタイミングで支部――正確にはルカのもと――に立ち寄っていたミルキィだ。
迷惑になる時間帯だから、と遠慮したところで、何を今更と言われそうなことを、今のミルキィは気にしている。
「……いや、でも違うか」
己の思考に、緩く首を横に振る。
実のところ、別に今から行ってもいいじゃん、と思っているところは変わらない。
そんな気ままな性質は、もしかしたら、ミルキィに流れる人ならざるものの気質なのかもしれない。
そんなことを薄ぼんやりと思いながら、ミルキィはまた屋根から屋根へと跳ぶ。
「気にしてるのは、遅くなるとお母さんに心配かけちゃうから、だね」
くすりと小さく笑う。
母に心配はかけたくない――気にするようになったのは、そんな些細なこと。でも、その小さな変化も、案外心地良いものだなとも思えて、その感覚は悪くない。
だから、帰路につく足も自然と速まるのだ。
――と。ふいにミルキィの足が止まった。
屋根上で立ち止まり、くんっと鼻を鳴らす。
「……この気配」
先程、鼻先触れた魔の気配。
「嫌な気配だな」
眉を寄せ、顔をしかめる。
そしてタイミングよく、視界にゆらりともやが薄く過っていく。
その様を見、ミルキィはさらに顔をしかめた。
すんと鼻を鳴らし、その気配をたどるように屋根を跳んだ。
気配の先、屋根上から細路地を見下ろす。
人の気配はなく、暮れる夕陽に濃く伸びる影。家屋の影に隠れるように、ゆらりゆらりと、もやが薄く立ち上っていくのが見える。
ミルキィが見下ろす高さまで上がってくる前に、そのもやは、すぅ、と溶けるようにして霧散していく。
すんっと鼻を鳴らして嗅ぎ取ってみれば、そわとミルキィの肌に鳥肌が立つ。羽織るアウターの中で尾が下がり、はみ出た。
「……やだな。やっぱ、嫌な気配」
思わずフードの中で顔をしかめる。
「負の韻ってバロン君は言ってたっけ。前は気配とかしなかったのにな。……まさか、鼻も利くようになってたりして」
ますます人から遠ざかるなあ、と。悲嘆も自嘲もとくに感じないが、なんとなく苦笑がもれた。
風が吹く。その風は立ち上るもやを巻き上げ、何処かへ運ぶように去っていく。
少しだけ毛色の違う風。だが、どこか慣れ親しむ気配も感ずる。
去り際、その風がミルキィの被るフードを頭から取っていった。
何かを探られる感覚に、風を追いかけるように空を仰いだ。
「……よくわかんないけど、ただの風じゃないよね」
魔の気配に随分と敏感になったものだ。
肩にかけるトートバッグの中、おそらく補助石だろう月の雫の存在を思い出した――時だった。ミルキィの獣の耳が立ち上がる。
空を仰ぎ見ていた視線を落とし、屋根上から通りを見下ろす。
誰かの声が、聴こえた気がした――。
*
暮れる空を背に、ばさりと翼を打つ。
琥珀色の瞳を空に向け、また眼下の街並みへと向けた。
「今日も決められたルートは飛んだ、よな」
丁度よい風をみつけ、翼を広げたバロンは旋回する。
視界の端で、鳥が風に乗って方向を変えて飛び去っていく後ろ姿が見えた。
自分と同じように本日分の役目を終えた精霊だ。飛び去っていった方向は、精霊の森。
「オレも帰ろっかな」
琥珀色の瞳にやわらかな色がはらむ。
バロンは翼を一つ打つと、あの鳥の精霊とは異なる方向へ舵を切った。
それは精霊の森ではなく、ミルキィが暮らす家がある街の中心地。
帰る、と口にして思い浮かぶのは、ミルキィの家――その彼女の自室。窓を小突けば、彼女が顔を出して入れてくれる、あの部屋だ。
バロンの心は決めてしまった。ミルキィがいい、と決めてしまったのだ。心の在り方が変われば、己の在る場所が変わってしまうのも道理だろう。
「――あれ」
と。眼下に見知った姿を見つけた。琥珀色の瞳が瞬く。
どうして彼の姿が街中にあるのかと疑問を抱きながら、バロンはゆっくりと降下していく。
街中の通り。家路につく人もまばらになり始めた頃合いだが、バロンは己に認識阻害を効かせ、見知った人物の肩に留まった。
「――なんで居んの、父さん」
そして、バロンの視線は父――シシィの腕の中へと向けられる。
「プリュはもう“外”に出てもいいんだな」
ほっと安堵した色が滲む。
父の腕に抱かれた青磁色の子狼が顔を上げる。
彼女の耳はぺたりと倒れてしょげた様子で、だが、父と同じ色をした碧の瞳は、きろりと小さくバロンを睨みあげている。
「ぷりゅはいま、いいこちゅーだもん」
そして、ふいっと顔を背かれてしまった。
それでも、どこかその動きに落ち込んでいる色がはらんでいる気がして、バロンは首を傾げた。
苦笑する声がし、バロンがシシィの顔を見やると、シシィの碧の瞳もバロンを見た。
そこには少しだけ、厳しい色がはらんでいた。
「プリュイは約束事を破った」
プリュイは顔を背けたままだが、しょげた耳が声に反応し、くいと動く。
「だから今は、僕かティアの傍に居る、という約束事を守ることで信用を取り戻し中ってところかな」
「……なる。それが『いい子中』の理由なわけか。んで? 父さんがここに居るのは?」
「んー、僕がここに居る理由か」
歩んでいたシシィの足が止まった。
「バロンと一緒だよ。街中の自然魔力を鎮めるために、ここに居る」




