2-15.ハグレモノたち
銀灰色のねずみが、ぱちくりと瞳を瞬かせるミルキィを見上げて、くつくつとくぐもった声で笑う。
その声は、ミルキィの反応を楽しんでいるような色をはらんでいた。
「驚かせたね」
そう言って、ググは瞬き一つの間で再び人の姿へと変じた。
ミルキィはしばし呆けて、ゆっくりと現状を咀嚼するように解していく。
それで解った事実は。
「つまりは、ここに居るのは魔族ってことか」
それ、一つ。
己という存在を認めてあげれば、解するのは簡単だった。
そしてまた、素直に受け入れられている自分にも驚く。
あれだけ否定して、人であることに拘っていたのに。
諦めに近い息が落ちる。
けれども、同時に。ごめんね、ルカ――彼に抱く想いひとつに、暗い影を落した。
それでも随分と息がしやすいことにも、もう気付いている。それを否定は、もう出来ない。
マグカップを持っている手に力が入る。落ちた視線に、頼りない顔をした自分が、ピーチジャスミンティの水面に映って揺れていた。
獣の耳をした己のそれが際立って目に映る。が、立ち上る湯気がそれを時折揺れ隠す。
「ああ、ごめん。そんな顔させるつもりはなくて」
ググの声に顔を上げれば、彼は困ったように笑っていた。
「でも、そんな顔をするということは、今の自分を認められるようにもなったということだよね」
それは良かった、と。今度は優しい顔でググは笑った。
いいや、ちっともよくないと、ミルキィは口を小さく引き結び、金の瞳を不機嫌そうに細める。
ぐるると、少しばかりググに対して唸り声がもれてしまったが、それだけ。それだけだった。
ススと対峙した時のような、かっと弾ける熱ではなく、しゅわっと弾ける炭酸のようだった。
自分を認めると、随分と呼吸がしやすい――その事実は素直に受け入れられる気がした。
隣でススが「お、認めたか」と、満足そうに、得意げに笑っているのが見えて、ほんのりとした恥ずかしげな気持ちを誤魔化すため、ミルキィはまたマグカップを口に運んだ。
ググはそんな彼女達のやり取りを微笑ましげに眺めたのち、やがて静かに口を開いた。
「――それで、ハグレモノのことだけど」
ミルキィがマグカップを置き、ググを見やる。
隣のススは「あ、忘れてた」と小さく呟き、取り繕うように慌てて居住まいを正す。
「ハグレモノっていうのは、きみを含めたぼくらみたいな魔族のことを指す――つまりは、人の国で暮らす魔族のことだね」
そこからググは語り始める。魔族と人について。
魔族の暮らす国と、人の暮らす国。両国は接地しており、貿易も行われ、人の行き来もある。
だが、行き来できる人々は限られているのだ。それはなぜか。
魔族の国は土地の持つ性質として魔力濃度が高く、対する人の国では魔力濃度が低い、という特徴がそれぞれにある。
行き来できる人が限られる理由がここにある。単純な話だ。
魔族は保有魔力が多い種。ゆえに活動するのにもある程度の魔が必要であり、つまりは、魔力濃度――自然魔力が濃い地でないと暮らしにくいのだ。
人はその逆であり、保有魔力が魔族と比べて少ない人では、魔力濃度が濃い地では生きていけない――魔物へと成り果ててしまう。ゆえ、人は魔力濃度の薄い土地を選び、定住した。
「魔族の国で暮らすには保有魔力量の少なさから難しくて人の国に流れてみたけど、人の国で暮らすには保有魔力量が多くて馴染みにくい、そんな外れた魔族のことを、ぼく達はハグレモノって呼んでる」
ググが小さく苦い笑みを浮かべる。
「魔族にも、人にも馴染めない者達だよ」
その言葉に、諦めのような響きがはらんでいた気がした。
横たわる重い空気に、ググがマグカップを洗って片す音が響く。
落ち着きなく尾をカウンターにぺちぺちと打ち付けていたススが、突としてミルキィを見上げて声を張り上げた。
「それでっ!」
重苦しい空気を吹き飛ばすような元気な声。
マグカップを棚にしまったググもススを振り返る。
二者の視線を受けて気を良くしたススは、耳を前に動かし、尾を大きく左右に振った。
「ススちゃんが言ったあれ、これのこと」
「あれ?」
小さく眉を寄せて首を傾げるミルキィに、ススは人の手に変じさせた前足を上げ、その指先を突きつける。
「答えは一つでもないと思うのだよ、子犬ちゃん」
ミルキィの金の瞳が瞬き、あ、と声をもらした。ススがにんまりと笑う。
「人って枠組みに拘り過ぎてるよ。人の世に居るのは、なにも人という存在だけではないのだよ、子犬ちゃん」
むふふんと得意げに笑いながら語ってみせるススに、横からググの手が伸びて、ミルキィに突き付けられた指先を「人を指さない」とやんわりと押しやった。
そして、ミルキィに向き直って柔く笑む。
「とりあえず、きみのような存在は一人だけじゃないってことは知ってて」
「そそっ、ススちゃん達も同じだからっ! 仲間だからっ!」
胸を張るススに、ググも「そういうことだから」と苦笑した。
同じ。仲間。一人じゃない――その言葉がミルキィの心にすとんと落ちて、沁みて、不意に視界が滲む。慌てて俯いて、熱を持ち始めた目元を指で拭う。
緩んだ気持ち。自然と言葉がこぼれ落ちた。
「……居たいと思う場所があるの」
心に浮かぶ姿――居たいと思う場所。
そこへ行くための道先がわからなくて、今は迷子になってしまっているけれども、それでも、目指したい場所は変わらない。
ススもググも、口を開くことも言葉を挟むこともせずに、静かにミルキィのこぼした言葉の続きを待ってくれている。
「それは……そこへ行くための道は、一つだけじゃ、ないのかな……?」
涙で濡れる声。光の見えない道を行くのは、不安で怖くて。
目元に熱を感じながら、ミルキィは顔を上げた。
「……――私は、私のままで、そこに居てもいいのかな」
「いいに決まってるっ!」
瞳を潤ませるミルキィに近寄り、ススはその手に己の手を重ねる。
元気に、当たり前のように言い切ってくれたのが、とても心強くて。
「行くべき方向がわかったんだから、あとはその道順を決めるだけだね」
ググの諭すような言葉に、ミルキィは滲む視界の中で「うん」と小さく頷いた。
光の見えない道に、一点の光が見えた。
だからもう、迷わない。真っ直ぐ、歩くだけだ。