2-13.できること、できないこと
家屋と家屋の間。路地道から吹き込んだ風が、バロンの淡い黄の髪を揺らした。
閉じていたまぶたが持ち上げられ、琥珀色の瞳が現れる。息を一つ落として。
「終わったんかな」
呟き一つ。外壁に寄りかかっていたバロンは身を起こす。
路地道から、腰に届く茶の髪を揺らしながらミントが姿を見せた。
「どうだった? ミント姉さん」
「ん、もやはそれほど濃くはなかったな。だが――」
言葉を切るミントに、バロンは怪訝そうに彼女を見上げる。
ミントがそんなバロンへ示すように手の平を上向かせ、視線を落とした彼は琥珀色の瞳を小さく見開かせた。
彼女の手の平に光の粒――下位精霊の姿。
淡く明滅するその姿は弱々しく、蛍のような儚げさをはらむ。
ミントの顔を見上げるバロンの瞳が、どうして、と問うていた。
ひゅっ、と。何処かで風が鳴く。
「――もやに絡まれていた」
硬い声で告げたミントが、ちらりと通りの方を見やる。
本日も賑わいを見せる通り。人通りは昨日よりも増している気さえした。
「良くない兆候だ。……人が多ければ、それだけ負のそれも濃くなる」
負のそれ。一般的に言ってしまえば、怒りや悲しみなどのネガティブな感情を指す。そしてまた、場所が場所だけに『欲』も集まる。
人が行き交う通りに並ぶ露店。客に品物へ目を留めてもらおうと、商いの声も飛び交う。
儲けよう――それも『欲』となるだろう。強すぎる想いは、時に精霊を苦しめる。
精霊の起源は人の祈り――想いに触れ、精霊は姿形を得たのだから。
バロンは琥珀色の瞳をきゅっと細め、揺らす。
びゅぉお、風が何処かで渦巻いた。
そんな俯く彼の頭に、ふっと力の抜けた息が落ちる。
「休息が必要だな」
バロンが顔を上げれば、表情を緩めたミントが彼の頭に手を乗せた。
「下位精霊にも、バロンにも」
ミントに呼ばれた彼が、え、と声をもらす前に、彼女の指が彼の額を軽く弾く。
痛いと額を擦るほどの威力はなかった。けれども、ばちっと耳元で何かが弾かれる音が聞こえた。
はっとしてバロンが周囲を見やる。
周りに残る気配は、自身の持つ魔力の残滓。
「気が立ちすぎだ」
諌める響きを持ったミントの声にバロンは振り向く。
その二者の間を、ひゅぅぅと低く細い風音が過ぎていく。そして、弱くバロンの淡い黄の前髪を揺らした。
それはまるで、しゅんっと落ち込んでしまったかのようで。
ミントがくすりと小さく笑う。
「お前を慕う風も、この街には居るようだな。それこそ、お前の感情に感化されてしまうくらいに」
ミントの言葉に、ばつの悪くなったバロンは軽く口を尖らせた。自覚があるだけに、余計に。
見ていることしか出来ないのが悔しい。改めて思い知らされた、自分に出来ないこと。その、あれこれ。
悔しげな色が滲むバロンの瞳が、ミントの手の平の光の粒に向けられる。
微かな、糸のような黒のもやを、視た。
まだ完全には解けてなかったようで、光の粒が苦しげに身を震わせる。
それをミントが指先で優しく撫で、そこから微細な魔を走らせる。
すると、ほるりと糸が解けた。光の粒はほっと小さな息をもらすと、穏やかな息遣いになる。
ミントが魔力を行き渡らせる。彼女の性質は土――包み込むような、優しい気配を感じた。
ふっと口元を綻ばせたミントは、口に人差し指を当ててバロンを見やる。
「深く眠ったようだ」
ささやく声に、バロンも光の粒の落ち着いた寝息を耳にした。
この場の静けさが、逆に通りの喧騒を際立たせる。
バロンが手を上げて払う。ふわりと魔を伴った風が起こり、風の層を築いた。
「結界で空気の流れを絶ったか。なるほど、防音壁なるものか」
感心したミントの、声量を落とした声。
褒められているのだろうに、それを素直に受け取れない自分が居て、バロンは小さく唇を噛んだ。
「……オレには、こんなことくらいしか出来ねぇから」
「だが、私に音を遮断するような芸当は出来ないよ」
ミントの手がバロンの頭に乗る。
嫌味なのか。そう皮肉ってしまう自分が、嫌だった。
「――さて、バロン」
バロンの頭から手を下ろしたミントが、改まった雰囲気で彼を見やる。
「他にもやなる場所はあるだろうか?」
彼女に問われ、バロンは風を読み取るために目を閉じた。
情報を得るに視覚を閉ざした方が集中しやすい。
教えて欲しいと気配を発すれば、耳元で小さく風が鳴く。
真っ先にバロンへ情報を落としてくれたのは、先程バロンの感情に感化されてしまうくらいには懐いてくれている風だった。
それから、次々に別の風がバロンに情報を落としてくれる。
情報を受取る際に感ずる気配で、風の気分も伝わってくるから面白いものだ。
渋々といった様子の風も居れば、仕方ないなあと、少しばかり苦笑混じりの風は、年長者のような雰囲気を感じる。
それには思わず、こちらも内心で苦笑した。
風はいつの時代も吹き渡り、そして、これからの時代も吹き抜けいく。バロンなど、どれだけ時を積み重ねても、それらには到底及ばない。
バロンは静かにまぶたを持ち上げた。
「この辺りにはなさそーかな、たぶん」
たぶん、の言葉はそのまま、自信のなさを表す。
この街の風はまだ、バロンを認めてくれているわけではない。
情報を落としてくれる風も確かに在る。
けれども、情報を落とすことなく、まるで挑発するように強く吹き付けるだけの風も在った。
だから、街の様子の情報を風から得ようと思っても、読み取れない――情報を落としてくれない風も在ったゆえに、街の一部はつぎはぎのように曖昧なままだ。
それはバロンが未熟な精霊だから。未成熟なままだから。――だから、風は認めてくれない。
そんな色が彼の琥珀色の瞳に滲み出ているのをミントは見たが、それについて触れることはなく、そうか、とだけ呟いた。
「ならば、私は一度精霊界へ戻ろうと思う」
視線を手の平の光の粒へと向ける。
「この子は精霊界の、王の下での休息が必要だろう。だからバロンは――」
しばらくの間は休んでいてくれ――ミントはそう言葉を継ごうとして、けれども、自分を見やるバロンの瞳に口を閉じた。正しくは、瞳に宿った力強さに。
「オレも一緒に行く」
行っていいか、と訊ねるものでなく、行く、と口にしたところが、バロンの気持ちの強さの表れか。
相手に判断を委ねる問いでなく、言い切る。
ミントの口の端が持ち上がった。
「なら、一緒に行こうか」
バロンは一つ頷いた。
己が未熟で未成熟な精霊なんだと思ったのならば、やることは一つだ。
「精霊の在り方を知りたいんだ」
学べばいい。それだけだ。
ミントは返事の代わりに満足そうに笑った。
◇ ◆ ◇
ススのあとを追い、いくつ塀を乗り越え、潜り、屋根を駆け、間を跳び越えたかは、途中から数えるのをやめた。
さすが猫。ススの身のこなしには感嘆すらした。
それをまた遅れることなくあとに続いているのは、人の範疇を越えているよなあと、ミルキィは己の人ではない耳と尾を見やって嘆息を落とした。
「……なんで、隠せないんだろ」
屋根を跳び下りたところで、ミルキィは呟く。
音もなく地に着し、後ろを振り返る。ひょんひょんと呑気に揺れる自身の尾を半目で睨み、むんずと引っ掴んだ。
掴んだ尾に意識を向け、己の保有魔力を感じ取り、流れを向ける。
いつもなら、これで尾は見えなくなる――隠形と言うらしい――はずなのだが、変わらず呑気に揺れる尾が見える。
その様に少しだけ苛立ちを感じ、握る手に力を込めた。
が、己の痛覚に通じるだけだ。走った痛みに、顔を僅かにしかめる。
尾が本能的に激しく振れ、その手を弾いた。
「……隠れてくれないと困るんですけどぉ」
文句を垂れてみるも、尾は素知らぬ様子でぱたぱたと左右に揺れるだけ。
「ミルキィちゃん、こっちだよぉー!」
ススの元気な声に、ミルキィは顔を向けた。
先を進んでいたススが、道の曲がり角からひょこりと顔を覗かせ、その向こうへと消えていく。
ミルキィは尾のことは一先ず置いておくことにして、ススを追うべく足を踏み出した。