1-18.居たいと思う場所(2)
「ハートフルな場面のとこ邪魔して悪いけど、そろそろ状況を把握して欲しいかな」
その声に、ミルキィを引き寄せていたルカははっとして身を離した。
できた隙間に夜気が入り込み、接して温かった部分を冷やしていく。
その冷たさに少しばかりの寂しさを覚えながら、ミルキィは声がした方へ視線を向けた。
ミルキィとルカに背を向けて立つ女性は、魔物に堕ちかけている男と向き合っていた。
彼女は誰なのだろうか。背に流された髪は、緩く編み込まれた白。
人の身で白の色を持つ者は、この国に住む者ではまず居ない。
とすれば、自然と導き出される答えは。
「精霊、さん……?」
ルカの服裾を軽く引っ張り、ミルキィは彼へ問いかけた。
女性の方へと視線を投じていたルカがミルキィを振り向き、ひとつ頷く。
「ああ。シルフ様だよ」
返ってきた答えにミルキィは軽く目を見張った。
シルフとは大精霊の名だ。
目の前の精霊が大精霊などと、さすがに予想していなかった。
と。その精霊が肩越しに振り返る。
「シルフは役職名みたいなものなの。だから、今はティアでいいわ。ここでは畏まる必要もないし」
苦笑を浮かべたティアは、けれども、すぐに表情を引き締める。
彼女が視線を前に戻すと、ミルキィもルカも視線をそちらへ投じた。
突然の乱入者に、相手は距離をとって様子を窺っているようだった。
警戒はらむ気配がこの場をぴりつかせる。
ともすれば、微かな風がティアの周りで渦巻き、彼女の髪をふわりと浮かび上がらせる。
「対策なしに飛び込むものじゃないわ」
呆れにも似た嘆息を落とし、ティアは琥珀色の瞳を前へ据えた。
そして、腰を落とす。
それからはあっという間だった。
風をまとったティアは、瞬きの間もなく相手との距離を詰めると、男の背後をとった。
男は怯む様子を一瞬見せるも、振り返る間もなく、頭の頂点に手刀を落とされる。
その際、男から何かが抜けていくのをミルキィは確かに見た。
けれどもそれは、視認できない何か。あと少しで視えそうなのに――そんな感覚を覚えた。
当の男は糸の切れた人形のようにその場にくずおれる。
この場に男を受け留めようとする者はいなく、地に強く打ち付けられる様は少しだけ痛そうだった。
代わりに向けられるのは冷めた目。
それだけのことを、この男はやってしまったということだ。
けれども、倒れた男の見た目は既に人のそれに戻っている。
大きく裂けたあの口も赤で薄汚れているが、人としての口に戻っていた。
「こんなもんね」
倒れた男の上でティアはぱんぱんと手を払っており、ミルキィはそんな彼女をまじまじと見てしまう。
今のがもしかしたら、魔物に堕ちかけた人への対処方だったりのするのだろうか。
ちょっとそれには興味を惹かれた。
これが精霊か、と。バロンも知らなかった精霊の御業的な感じだ。
だが、それにしては扱いが少々雑な気がしなくもない――が、同情する気はさらさらない。
ミルキィの視線に気付いたティアがふんっと鼻をならす。
「こいつにはこれでいいのよ。手を出しちゃいけない領域に踏み込んだ上に、娘に手を出したんだから」
機嫌の悪い色を琥珀色の瞳に滲ませながら、ティアは男を見下ろした。
その瞳がひどく冷たい。
「ムカつくけど、精霊として魔を鎮める役目を放かるわけにもいけないし」
「私も、同情する気はないです。けど……」
「けど?」
すぼんだミルキィの言葉尻をティアが拾う。
訝るように首を傾げたティアに、ミルキィは何となく居心地の悪さを感じて、縋るようにルカの服裾を掴んだ。
「ん、ミルちゃん?」
ルカの視線。ルカの声。それに気持ちを落ち着けて、ミルキィはそっと言葉を口にする。
「……一安心、が近いのかも、です。これで、私が爪を振り下ろすことは、今は、たぶん、ないから」
服を掴む手に力が入った。
ティアは黙ってミルキィの言葉に耳を傾ける。
これは自分が踏み込むべき場面では気がして、ティアはそっとルカを見やった。
その間にも、ミルキィはぽつぽつと言葉を落としていく。
「それで、この人を傷付ける心配は、今はしなくていいし……」
魔物に堕ちかけた彼は、芽生えた魔物としての本能で襲いかかってきたのだと思う。
ミルキィが爪を振り下ろそうとしたのだって、身を守るための本能のようなもの。
そこに善悪はない。少なくとも、あの時のミルキィにはなかった。
そしてまた、今でも爪を振り下ろそうとしていたことに対しての後悔も、罪悪感もない。
それが、怖い。自分はいつか、決定的なことをしてしまいそうで。
「……踏み越えちゃいけない一線が、私は曖昧だから」
足元に視線を落とし、俯く。
が。
「――なら、俺はミルちゃんの、ミルキィの寄辺にはなれねぇか?」
ルカの声がミルキィの頭に落ちた。
金の瞳が瞬く。
ミルキィはのろのろと顔を上げ、ルカを見上げた。
「より、べ……?」
「ああ」
ミルキィを見下ろすルカの碧の瞳。
その瞳にどこか必死な色が滲む。
「ミルキィの芯の部分に、俺を置いてはくれねぇか……?」
「どういう――」
こと、の言葉は紡げなかった。
瞬時にして、周囲の空気が色を変える。
ミルキィの尾が足の間に巻き込み、金の瞳が紅を帯びた。
同じくして、ルカも息を詰めて周囲へ警戒の目を走らせる。
「ティアさん」
ルカが固い声でティアを呼ぶと、彼女はゆっくりとルカの側へと移動し、同じく固い声で答えた。
「ごんなさい。私も油断してたわ」
「囲まれて、ますよね……?」
「ええ。ここ、魔が濃いから、私の感覚も鈍り始めてるのかも――っ」
刹那、ミルキィの背後で夜闇が蠢く。
それに逸早く気付いたのはティアだった。
彼女が咄嗟に風の障壁を築くと、夜闇から伸びた蔓が弾かれた。
「ひえっ」
後ろでした音にミルキィが悲鳴を上げる。
すぐにルカがミルキィを引き寄せ、庇うように彼女を背後へ押しやった。
「――ヒョオ」
ルカがぽつりと呟きを落とすと、うむ、と応えの声が返る。
いつの間にそこに居たのか。ミルキィが驚きで目を見開く。
ルカの首にとぐろを巻いたヒョオが、ちらりとそんなミルキィを一瞥した。
ヒョオの紅の瞳が意味ありげな色を宿すけれども、すぐに彼はルカを見る。
「ルカよ、我はいつでもよいぞ」
「おう、いくか」
ルカは自身の服裾を掴んだままだったミルキィの手を優しく放させると、彼女から離れて一歩踏み出す。
そして、肩越しにティアを振り向いた。
「ミルちゃんを頼んでも? あとはついでに、そこのやらかし男も」
「ええ、任せて。やらかし野郎には結界でも張っとくし、私も魔力を練っておくわ」
ミルキィの肩に手を添えて応えるティアにひとつ頷き、ルカは駆け出した。
ミルキィが思わず手を伸ばしてしまったのは、ルカを心配して引き留めようとしたからか。
呆然と己の伸ばした手を見つめる。
自分が追ったところで、足手まといどころか、たぶん、お荷物だ。
手を握り込む。
この場面で自分に出来るのは、大人しくしてティアにきちんと護られることか。
力なく手を下ろすと、ティアが顔を覗き込んできた。
「大丈夫よ。ルカ君とヒョオ殿はすごいんだから」
「すごい……?」
「そう、よく見ておくといいわよ。あれが精霊魔法の行き着いた先、人と精霊の繋がりが為せるもの――」
ティアが視線を投じる。
同じようにミルキィも視線を向けて、そして、息を呑んだ。
立ち止まったルカの先には、うねる蔓が幾つも見えた。
けれども、ルカに怯んだ様子はなくて。
ルカの首にとぐろを巻いていたヒョオが、彼の腕へと降りる。
そして、ルカが口の中で何事かを紡いだ。
その声をミルキィの人ならざる耳が正確に拾う。
けれども、それはミルキィの知る言葉の並びではなかった。
言葉なのは確かなのだが、その言葉の持つ響きを言葉として認識出来ない。
そして、その響きに覚えがあった。
「あれって、精霊の真名……でも、それだけじゃない気もする……?」
「人の言葉とは違う音の並びで精霊の真名は紡ぐものだけど、あれはね、そこに人の言葉の音も絡めてるのよ。声に魔力を乗せて」
真名にまた別の音――人の言葉の音を絡める。
声に魔力を乗せて。それはつまり、言の葉。言葉に力を込めるのだ。
ルカの言の葉に、ヒョオが応じる。
瞬間、白蛇の鱗が光を帯びた。
光を帯び、やがてヒョオ自身が包まれたかと思えば、次の瞬間にはその身を変えていた。
あの言の葉は、人が魔法を扱う際に用いる陣の役割を果たしているのかもしれない。
「――んじゃ、行くぞ。ヒョオ」
不敵に笑うルカに応えるかのように、彼が手にした剣の刀身が焔を宿した。
その様に魅せられながら、ミルキィはなんとなくだが理解する。
魔法とは、願いを込められたオドに、マナが応えることで具現する現象。
そして、精霊の身体はマナで構成されているという。
「……人と精霊の、繋がりが為せる魔法」
きゅっ、と胸の前で手を握る。
ミルキィが静かに見守る中で、ルカは焔宿す剣を振り上げた。