異国の灯火
「のう、俊貞殿。」
女の声が御簾の内から聞こえる。その声は弱々しい。森俊貞は叩頭しながら険しい表情で、はい、と答える。
そこは豪奢ではないが、明らかに貴族邸と分かる設えの部屋であった。
俊貞は女が…否、かつての主人であった香燦はもう長くなかろうと思った。既に齢は八十を超えている。いつ、そうなってもおかしくはないと、分かっていても信じられない。
二十年の昔、下働きとして働いていた喜童社が離散した時、俊貞は香燦に拾われた。
俊貞だけではない。今の東街には当時、香燦に救われた人間が数多く働いている。今の明国東街を築いたのは香燦である、と言っても過言ではない。
香燦はその姓が示す通り、明国の国主の一族である。
彼女の夫は香汪卓という武人で、先先代の明国侯の弟であり、彼女の息子は王府の総督元帥にまで登った。その、高貴な貴族である彼女が、俊貞のごとき下男上がりの人間に親しく接するのには訳がある。
香燦は|朱雀国で生まれた。即ち、異民族である。
渡航禁止の世にあって、そもそも異民族などという者は、存在してはならないのだ。
当然、彼女は己の出自を公にはしていない。
だが、彼女はそれ故に、最下層の身分である卑賤に対しても寛大であった。
彼女は俊貞が出会った中では喜童社の人間以外で、初めて卑賤である己を人として扱った貴族であった。
今の商人・森俊貞があるのは香燦のおかげと言って良い。
その、香燦の命が尽きようとしている。
燦は弱々しい声で言った。
「俊貞殿…朱雀街はどうなるであろうか。」
俊貞は苦い顔をした。
香燦は俊貞ら喜童の残党を救った。しかしそれはただ、見返りもなく救ったというわけではない。
朱雀街とは東街の裏の名前である。
その名の通り、東街は色街の顔をして、実は朱雀国の亡命者を匿う受け皿なのだ。
即ち燦の目的は、翼龍船による組織的密航の罪に問われた喜童の残党を救うことではなく、畢鼠や移民に対して理解のある彼らに、朱雀の民を受け入れさせることであったのだ。
だが、と俊貞は思う。いかに東街の盟主たる森俊貞とは言え、香燦の庇護なくして、朱雀人を庇いきることができるであろうか。
俊貞は不安である。
喜童事件以来、この国は渡海に対しより厳しく監視するようになった。
明は侯の性質もあってかその中では取締りが緩いが、それでも、いずれ露見するのではなかろうか。
「のう、俊貞殿…もし…朱雀街がそなたを危難に陥れるような時は…」
その、俊貞の気持ちを読んだかのように、香燦が言う。
「彼らを引き渡すが良かろう…」
その絞り出すような言葉を聞いた瞬間に、俊貞は床に額を擦り付けていた。
俊貞が今生きているのは香燦のお陰である。その己が、燦に報いることができぬ。それが、悔しくてならなかった。