7.小さな世界
「あなたたちは、もっと自由に生きればいいわ。わたしたちと一緒に、いる必要はないの」
「……え?」
灯は実紀が言葉を発するたび、ひやひやさせられているなと感じた。あの場所にいる人から、そんなことを言われるとは思わなかったのだ。
「あなたたちはまっすぐに育つことのできた、数少ない存在なの。だからあんな場所で、一生を終えてほしくない」
「……実紀さんは、あそこにいるのが嫌なんですか」
「嫌では、ないわ。けれど選択肢がないの。子どもであることの楽しさを奪われた私たちには、世の中にたくさんある選択肢が見えないし、選択肢を示されても選び方が分からないの。だからせめて、あの場所で穏やかに過ごすしかない。わたしは、退屈だと思ったことはないけれど。きっとあなたたちにとっては、つまらないものになってしまうはず」
灯は何か、心にもやっとくるものを感じた。何か実紀に言わなければならないのに、言葉が出てこない。思い出せないのではなく、最初から自分が持ち合わせていないものを要求されている。そんな気持ちだった。
「きっとあなたたちなら、大丈夫。まだわたしたちは終わりじゃないんだって、思わせてくれた。ありがとうね?」
「いえ……」
実紀は灯たち二人を置いたまま、元の建物へ戻り始める。灯にはかけるべき言葉が見つからなかった。短すぎる別れの時間。根拠はないが、もう実紀と会うことはないのだろうと灯は感じていた。そしてこれからは、灯たちを連れ戻そうとする片岡さんたちとのかくれんぼになる。
「……行こう、梢」
「え?」
「僕たちはまだ、この世界のことをもっと知るべきだ。地上人類亡き後――亡くなるはずだった後、この世界に何があったのかを」
地上世界がまだ、健全に存在していた頃。日本という国は四十七の都道府県に分かれ、それぞれある程度独立して統治が行われていたらしい。今もそうなのかどうかは分からない。が、灯たちが知っているのがほんの、ほんの一部分に過ぎないということには変わりがない。
「僕たちの記憶にあって、地上人類が日本で最後に存在した場所は……」
「……関ヶ原」
「え?」
灯は驚く。灯にとってその情報は、めったに引き出すことのない重要度の低いもの。だからこそ時間がかかったのだが、それを梢はすぐに言ってきた。そしてそれを言った梢の顔は、いつになく感傷的だった。が、いつ片岡さんが追いかけてくるかも分からない状況で、立ち止まっている余裕はない。
「……急ごう。あそこは悪くない場所かもしれないけれど、それでは僕たちの目的が果たせない」
「……うん」
目的はいつしか変わっていた。もう梢が言っていたように、おいしいご飯を安心して追い求めることはできないかもしれない。ただ、それでも一度おいしい食べ物の存在を知ってしまった灯たちは、もう元の地下生活には戻れないだろうと感じていた。
「……ありがとう。実紀さん」
実紀は灯たちが他の人間とは違うことに気づいていたのだろうか。そうでもなければ、自分が責められるようなことをわざわざやりはしないだろう。
地上人類が最後に見た――はず、の大都市・東京は、高度に成長した姿のまま。それが『かつての姿を残したまま』なのか、それとも『建て直された幻』なのか。それをはっきりさせないまま、灯たちは東京を去る。
* * *
地下人類はしばしば、地上世界を『大きな世界』と表現する。新幹線やリニアモーターカー、果ては飛行機といった、途方もないような長距離を楽々と移動する手段が地上人類にはあった。一人ひとりが見ることのできる世界は、非常に広かったのだ。だが、地上人類は滅亡に際して、それらの技術を諦めて自分の身の回りだけ――すなわち『小さな世界』を見ることに集中した。だから灯は地下人類がどれくらいいるのか知らないし、知り合いもいない。新たな命が入ったカプセルはランダムに配置されるから、自分に近い祖先や子孫に出会うこともない。本当に、自分の周りのごく狭い範囲しか世界を知らない。
「……何とか、なるものなんだね」
だから今の日本に血管のように高速鉄道網が張り巡らされていることを知った時、灯は驚いた。やはり地上人類とその文明はずっと続いていたのだろうか。北海道から沖縄まできめ細やかに配置された高速鉄道を一度失くして、もう一度建て直したとは考えにくい。かつての人間にそれほどの情熱があったのだろうか。
その高速鉄道に乗るのにも、身体に埋め込まれたチップが必要だった。灯は片岡さんやすれ違う人たちのチップを参考に、溶岩からチップに似せたものを体内に作り出した。本物と違ってお金が入っているわけではないが、チップを認識する端末を欺くことはできた。それを梢にも渡して、二人で乗り込んで並びの席に座った。
「……梢」
目的地には一時間ほどで着くとのことだった。灯は東京以外の街並みがどうなっているのか観察する意味も込めて、ずっと起きているつもりでいたが、梢はそうではなかった。地上世界にやってきて、新しいことの連続ではしゃぎすぎ、疲れたのか席に座るなり眠りに落ちてしまった。穏やかな、安心しきった顔でまどろむ梢に、灯はそっと疑問を投げかける。
「……君はいったい、何者なんだ?」
梢の右手の甲には、灯が溶岩を介して渡した偽造チップが入っている。
今灯から見える梢の左手の甲にも、どうやら本物らしいチップが入っていた。