15.缶詰の中で生まれ育った僕は、およそ愛というものを知らない
地上人類は、きっと、地下人類が生きていることを知っていたの。そうでなきゃ、こんなに短時間で武器なんて用意できない。みんな、地下人類が自分たちより劣った存在だと思っているの。だからどんな手を使ってでも、地下人類を滅ぼそうとするはず。地下人類は灯と同じ、溶岩の能力しか持っていないし、この気温には対応できないから、大人数に囲まれてしまえばどうしようもないわ。
でも地上人類は、多様性を優先しすぎた。そのせいで、虐待することが正しい子育て――そう学んでしまった。他の人たちと協力すること、仲良くすることを、教えてもらえなかった。だから、誰も信じられないの。信じてはいけないとさえ思っているかもしれない。地下人類が地上人類よりも数が多い状態なら、すぐに地上人類はやられてしまう。地下人類はみんな溶岩の能力を持っているから、全く知らない人どうしでも、その人が次に何をしたいかが分かってしまう。協力しようと思わなくても、勝手にそうなってしまう。
地上人類も地下人類も、それぞれ強さと弱さを抱えているの。だからぶつかった時、どっちもすぐに数を減らしてしまう。
「はっ、はっ、はあっ……っ」
『逃げろ、こんなところで死ぬな』
恒の最期の言葉は聞けなかった。だが口の動きは間違いなくそれだった。
どうして恒がいるのか。どうして自分たちを守ったのか。ほぼ即死だった恒からは、そんなことも聞けなかった。だから逃げた。地上人類が死んでしまうかもしれないと思いながら、周りに溶岩を撒いた。一気に混乱状態に陥った人混みを抜けて、何とか自分だけでも縄をほどいて、梢を肩で担いで走った。梢が途中から喉をひゅうひゅうと鳴らし始めたから、そこから背中におぶってなお走った。
「梢……っ」
ずっと、梢は溶岩を定期的に補給しないと生きていけない、そういう体質なのだと思っていた。深く考えることもなく受け入れたあの時の自分を殴りたかった。
「あ……ああ……」
夜の闇に包まれた東京。美しい月が出ていたはずの空は一転、雪が降り始めた。吐き出す息は瞬く間に白くなり、呼吸が苦しくなってゆくのを灯は感じる。足取りがだんだんと重くなってゆく。どこへ向かえばいいかも分からないまま逃げるうちに、足がもつれるほどに雪が積もる。どれだけ走ろうと同じような大きさで聞こえていた銃声が、だんだん少なくなってゆき、ついにはぱたりと止んでしまった。
「梢……みんなの気配が、消えてゆく……」
「ええ……分かるわ、私、にも……」
自分を囲む世界に流れる、ぞっとするような寒気。怖かった。怖くて仕方なかった。もうこの世界に、自分と梢の二人しかいないという事実を、肌で感じることになるとは思わなかった。そしてそれは、梢が何百年か前に経験したことと同じだった。
「灯……、お話、しましょう……?」
ひゅうひゅうと喉を鳴らし、それからこほこほと咳をする梢。その拍子に、灯の目の前の雪が赤く染まる。
「そんな……」
「絶望、する必要は、ないわ」
もう細切れに声を発さなければ、まともに息をすることもできない。梢がそこまで追い込まれた状況であるという事実が、灯の視界を真っ暗にさせる。しかしそれでも、梢は全く悲しそうな表情を見せなかった。灯はその場で膝をつき、立ち上がれなくなってしまう。世界の冷たさが足を伝って全身に広がる。梢が灯の背中を滑り落ち、その場に倒れ込む。もうこれ以上は梢を背負って進むことができない。そう悟って、梢がせめてどうしようもないほどの寒さを感じないように、灯は梢に覆いかぶさる。
「だって、……こんなに、世界は、きれいだもの」
「僕は……僕は、梢に何もしてやれなかった……こんな話……っ」
「あのね、」
「……っ!」
「私と一緒に、地下に残ってくれた、八人の子どもたちの中で。一番下の子は、いつも、私のことを心配してくれていたの。地下で、暮らし始めてから……ずっと、体調を、崩していたから。どうしてほしい、どんなものが食べたいって、いつも、私に聞いてくれた。十五歳だったわ……あの時。すごく、多感な時期だった、でしょうに……私のことを、誰より気にかけてくれたわ……あの子の名前は、”灯”だった」
そうしている間にも、梢の息は浅く、声は小さくなってゆく。
「恒に、思い出させてもらって、あなたがあの子と、同じ名前だって、分かった時。すごく、嬉しかった……。だって、」
私は、あなたのことを愛しているから。
目の前がかすむ。それは意識がもうろうとし始めたからでもなく、深い雪のせいでもない。涙が溢れて止まらないからなのだと、灯の意識に遅れて気づかされた。
「梢……」
「こんなにも大切で、温かい気持ちを、あなたたちに、教えることができなかった。自分たちの生きた証が、全部なくなることが、とても怖くて……でも、今はすごく、嬉しい。大切なあなたのそばで、旅立てるから……」
どれだけ梢が自分のことを自分でしなくても。どれだけ帰ってこない時間が続こうとも。どれだけ一緒に寝起きしようとも、どれだけこの世界の冷たい真実を知ろうとも。梢のことが、心から大切だというその気持ちは揺るがなかった。それを人は昔、愛と呼んでいたのだと、灯は理解した。
「僕は……僕は……っ! 君のことがずっと愛おしかった……! 僕が君のコピーだろうと! か弱い地下人類だろうと! こんなに単純で純粋な気持ちを何と呼べばいいか知らなかろうと……! どうしてこんな時に気づくんだ……僕は……!」
「ありがとう」
か弱いその手で、梢が灯の頭をそっと撫でる。もう芯まで冷え切って冷たいはずなのに、不思議と、温かい感じがした。
「僕は……梢のことを、愛しているんだ……」
「もしも、どこかで。生まれ変わって、もう一度、出会えたなら。今度は、……ずっと一緒に、いましょうね?」
「ああ……」
灯の返事は、届かなかった。梢の首筋が、全身が、すう、と冷えてゆく。
「……もちろんだよ」
灯は倒れ込んだその場所で、眠ると決めた。そうすればずっと、梢と一緒にいられるから。たとえこのいつ止むとも知れない雪に埋もれようと、手を離しさえしなければ、梢と離れることはないから。
「……っ!」
気温は下がる一方で、いよいよ灯も思考が鈍り始める。そろそろ目をつぶろうか、と思ったその時。二人の前に、人影が見えた気がした。
『私たち、また一緒になれたね』
『僕はこうなれると、思っていたよ』
それは夢か、幻か。どちらでもよかった。梢と二人なら、きっとそうなれると思えたから。
「ありがとう」
声にならない声でそう発して、灯は目を閉じた。二人がもう一度、目を覚ますことはついになかった。
―完―