11.アイデンティティ
地上人類は生きている。
その事実を改めて突きつけられた時、灯は愕然とした。自分が散々見てきた光景は幻ではなかった。
「俺たちの技術ならば、仮想現実を拡張してあたかもそこに本当に人間がいるかのような五感を再現することもできたかもしれないが。今の地上人類は全て俺と梢の子孫であり、君の遠い遠い親戚だ」
「……なら、どうして」
「これほどまでに多様性があるのか、だろ? それは簡単だ。地上人類として生きることを決めた俺の子どもたちが、能力を捨てたからだ。地下人類として生きることを決めた子どもたちの分も合わせて九つしか、能力はなかった。能力という個性を縛る要素を捨てた代わりに、ある意味での『人間らしさ』と多様性を手に入れた。そういうことだ」
「能力がなけりゃ、地上では生きていけないって話だったろ」
「もちろん無茶苦茶な気候に耐え切れず、死んだ子どもたちもいた。それでも人間の適応力が勝ったということだな。俺は今でも、東京やそこらを歩く者たちが、自分と同じ匂いがするのを感じるよ」
通常生物の進化というものは、数百年やそこらで起こるものではない。が、自分たちの種が滅亡するかどうか、というところまで追い詰められれば、身体もそれに合わせて変化するということか。
「ならなぜ、地上人類は滅んだって嘘をついたんだ」
「嘘ではないさ。無論、結果的には嘘になったが、今の地下人類が持っている記憶は全て、梢の知識に由来するものだ。梢は俺たちを見送った側だから、当然地上で生きてゆけるはずもなく、自分が眠っている間に滅ぶだろうと思っていたようだな。まあ、そう思うのも仕方ない。俺でも梢と同じ立場になれば、そう考えるだろう。それだけ当時の自然環境は人類と相性が悪かった」
「……僕たちは、全員梢のコピーということか?」
「忠実に梢の記憶を引き継いだ子孫だからな。梢がどう考えて地下人類のシステムを構築したのかは、本人に聞く他ないが。少なくとも俺にはそう見える」
地上人類が多様性を優先したように、地下人類は種の保存を優先した。結果的にどちらも生き残っているが、今後数百年の見通しが立っているのがどちらかと問われれば、その答えは明らかだ。
「……地下人類に、未来はないのか?」
「そういうわけではない。地下人類を作り出した梢もまた、正しい判断をしたと俺は思っている。そもそも安定的に人間が子孫をつないでいけないならば、多様性を考える意味はないからな」
「けれど……地下人類が今から多様性を考えて、子孫を残すことなんて」
「不可能ではないだろうが、かなり厳しいだろうな。まず個性を縛るその能力を捨てる必要がある。今の地下人類は、生き残ることを優先してきた結果だからな」
能力を捨てること、それは地下人類にとってのアイデンティティを投げ出すことに等しい。たったそれだけで、地下人類の全てが、数百年で積み上げてきた全てが、泡のように消える。かといってこのまま地下人類のシステムを継承し続けても、途絶えずずっと生き長らえる保証はない。
「どうして……」
「厳しい現実を突きつけることになるが。仮に今から地下人類がその固有の能力を捨て、地上人類に順応する生き方に切り替えたとしても、滅亡する可能性が高い。地上人類がある程度繁栄しているとはいえ、悪環境であることに変わりはないし、これから先しばらく改善することはないだろう。そんな場所に一時滞在するならばともかく、永住できるほど地下人類の身体は頑強ではない。環境の変化に順応するための進化を起こす前に、滅んでしまう」
「……だから、僕たちには教えなかったのか。地上人類が、生きているということを」
「それは誰にも分からなかった。誰の責任でもない。地上人類が生き長らえることが確定する前に、俺も梢も長い眠りについたからな。だが仮に地上人類の行く末を見届けていたとしても、梢は子孫たちには伝えなかっただろう」
「……どうしてそんなことが分かるんだ」
灯が虚ろな目を恒に向ける。恒は笑っていた。全てを包み込むような、優しい微笑。灯の吐き出すに吐き出せないこの気持ちが、遠い遠い父親である恒に伝わっていないはずはない。しかしそれでも、恒の笑みはひどく残酷だった。暗闇に突き落とされ、ただ重力に従うしかないこの身を、嗤われているような。そんな笑みで、なお恒は告げる。
「梢が、俺の妻だからだ。楽観的なところも、自由奔放なところも。食に貪欲なところも、肝心なことをなかなか言い出さない奥ゆかしいところも。何もかも、あの頃と同じだ」
「……」
「……梢はもう少しで意識が戻るだろう。俺がいると気まずいだろうから、失礼させてもらう」
本当はもっと、恒のことを責めたかった。いろいろ聞きたかったし、激高して言いたいことを好きなだけ言いたかった。だがそうするだけの感情を、灯は持ち合わせていなかった。ここはひどく怒るところなんだ、と頭では理解していても、それを身体で、表情で表せない。それに気づいて初めて、灯は自分が『感情』とは何か、よく分からないことを知覚した。
「僕は……本当に、人間なのか?」
普通の精神状態ならばまず出てこないようなそんな問いも、自分に向けてしてしまう。感情自体は他の動物にもある。だがそれをはっきりと、特に言葉として表現できるのは人間だけだ。それができないならば、自分は本当に人間と呼んでいい存在なのだろうか?
「うん……?」
「梢……?」
恒がいつの間にか姿を消したことに気づくと同時に、梢の変化を灯は感じ取った。どこを見ているかすら分からなかった梢だが、おもむろに灯の方を向いた。そして思い出したように、その名前を呼ぶ。
「灯……」
「梢……!」
そのままばたりと、抵抗もなく倒れようとした梢を支えようと、灯はその身体をそっと抱く。これまでも梢が灯にハグを求めてきたことは何度かあった。だが自分で支えた梢の身体はいつ感じたのよりも重たく、心に直接響いてくるような温もりがあった。その温かさを感じた時、灯はどういうわけか、それが母の子に対する慈しみであると瞬時に理解した。地下人類が感じるはずのない『母の愛情』が、心の隅々にまで染みわたる。
「辛かったでしょう、辛かったでしょう」
二度響いた梢のその言葉が、さらに灯に浸透する。それが何か、心の引き金を引いたように灯は感じた。
「――!!」
灯の目から、いつの間にか涙が溢れていた。