思想の胎動
私はできれば論文の形で私の確固たる主張である「共産趣味批判論」を書き上げたかった。しかし、私はチキン野郎であり、日本全国の共産趣味界隈と直接ガチンコ論争される度胸はないため、小説という形で本稿を執筆しようと考えた。小説ではあくまでフィクション作品として見なされており、某小説家が描いた某通史のように参考文献はそれほど必要ないと考えているからである。無論、引用した箇所については脚注をつけるつもりである。
さて、本題に移るがこの物語で伝えたいことは「共産趣味」は「共産主義」の劣化をもたらすため、思想の「純化」が必要であるということだ。ブラック企業が現代に蔓延る日本社会において、残念なことに次世代の共産主義の担い手は減少していくばかりである。それは時代の必然かもしれない。しかし、それにとどめを刺すのが「共産趣味」であると私は考えている。この理由は物語の途中で明らかになるであろう。前書きで全部書きそうになるのでここまでにする。では読者の皆さんご覧あれ
東風共助はX国の祖父から続く筋金入りの共産党員であり、共産主義に関して多くの書物を有していた。彼は共産党機関紙「フロント」の編集者であり、多くの政治的事象や思想に関して言及している。
ある時、彼がいつものようにtwitterを利用していた際、彼のフォロワーを閲覧していたら「共産趣味」なる語を目にした。それは、旧共産圏における国々のプロパガンダポスターや歌、映画を始めとする文化、そしてミリタリーなどを対象とするいわゆる「オタク」の集団であった。
初めて目にした際、共産主義思想がソフトパワーではあるが広く浸透し、思想に理解してくれていることに共感していた。しかし、その直後、ある一種の疑念が生じた。「彼らの活動の拡大によって真の共産主義思想がますますノスタルジックなものとなり、忘れ去られるのでは?」。
この彼の疑念、いや危機感の根本的なところは「趣味」とする者が増幅し、マジョリティ化することでマルクス・レーニン主義(その他の派生思想も含む)の目的が劣化していくのではないかというものである。このとき東風はこの悪い流れは止めなければならないと誓った。
文明の破壊者、人民の敵と称されても、真の革命の成就のため徹底的に批判して共産趣味を生贄として思想の純化を図るべきであると。かつてマルクスが他の社会主義者と軋轢を生みながら「共産党宣言」を記したかのように(*1)。
東風には一切の躊躇がなく、妥協がなかった。X国では長らく、社会主義の時代を経験しておらず、真の共産主義について、もしくは政治思想そのものについての理解が乏しい状況であった。
彼の所属する共産党もまた、実際のところ数十年前に革命の放棄を宣言している。あくまで、低所得者の生活向上、多様性の尊重を主たる目的となってしまった。東風自身、名ぐまれた家庭で育っていたことから今の時代に革命を起こす気などさらさらなかった。
しかし、いつかはそれを必要とする時代が来ることを予見しており、いつでも稼働できるように茶化されない思想、すなわち純化された思想は保つべきであるという固い信念は持っていた。人類文明は天変地異、国家間の戦争によって恵まれた環境はいくらでも壊される。そして文明の再生のためには宗教や英雄ではなく、労働者人民による完全平等な統治が必要であると確信しているからである。
それゆえ、今の時期に共産主義が茶化された(サブカル)状態で過去の遺物状態となると、もう2度とその思想は歴史の主役として機能しなくなる。これがかれの強い危機感の正体である。しかし、この力説は当然ながら根拠に乏しい。特に茶化されたらその後なぜ機能しなくなるのかについてが指摘されるであろう。これらのことを踏まえながら、彼は「共産趣味」と対峙すべく以後論文を多数執筆していくのである。
(*1)当時の詳細に関しては映画の脚色は見られるがラウル・ペック監督の映画「マルクス・エンゲルス」が詳しい(http://www.hark3.com/marx/)