第3章
不承不承ながらも、森の奥へと進んでいく莱夢さんを追いかける。屋敷から泉への道のりと同じく、妖精どもの話し声がまったく聞こえない。それだけでなく、自然発生する音すらも今は自粛しているかのような静けさ。
まさか、森が莱夢さんに緊張している……?
あまりにも音がない静寂に気まずくなり、俺は前を歩く美しい黒髪へと問いかけた。
「あのー、莱夢さん?」
「あん?」
どうせ目的地は教えてくれそうにないので諦めている。
「俺のじいさんや白蓮を知ってるような口調でしたけど、知り合いだったんですか?」
「あぁ、そうだよ。奴らが寺子屋通いの頃、あたしが教師として招かれたのが最初だったかな。それから数年間、教師と学生の関係が続いて……白蓮と再会したのが、今から十年くらい前のこと。あたしが今の家に移り住んだ時だな。あたしもまさか白蓮が罪歌桃の管理をしているとは知らなかったから、再会は偶然だった」
寺子屋? 学校のことか?
不思議な表現の仕方に、ついつい首を傾げてしまう。莱夢さんが学生だった頃、白蓮たちが教師をしていたって意味でいいんだよな?
俺の無言の疑問に感づいたのか、前を歩く莱夢さんが肩越しに振り返り、声を上げて笑った。
「あ、そっか。お前はまだあたしのことを何も知らないんだよな。言っとくけど、あたしは今年でだいたい七百歳くらいだ」
「七ひゃ……」
聞き間違いではなさそうだ。そしてからかっている様子もない。
「七百年も……生きてるんですか?」
「そうそう。あたしはね、不老不死なんだよ」
「え……、不老……不死?」
「そう。老いることもなく、死ぬこともない人間」
ポケットから煙草を取り出し火を点ける。紫煙が葉の天井へと昇り、霧散していった。
それはどういう意味だ? なんかの比喩か? いや、俺も興味があって凛に訊いたことがあった。漫画や小説なんかで読む仙人は、絶え間なく修行を積むことにより、永遠に朽ちぬ身体を手に入れることができる、と。
しかし凛は鼻で笑い、そんなことはないと簡単に否定した。
確かに人間の頂点を極めた仙人という存在は、一般人よりも長く生きるのだという。個人差もあるが、それは百五十から百六十だと。それ以上は身体の構造的にも、輪廻転生的にも不可能なんだとさ。その話はあまりにも難しく理解に苦しんでいたが、仙人は不老でも不死でもないが普通の人間の倍くらいは生きる、と解釈していた。
しかしこの魔女はなんと言った? 七百歳? 人間の頂点である仙人の約五倍だぞ。まさか人間じゃないのか?
「いいや、あたしはれっきとした人間だよ。両親はもちろん、その親もそのまた親も。妖怪の血なんざ一滴も混じっていない」
「じゃあ、なんで……」
「あたしはね、呪われてるんだよ」
呪い、か。これまた不可解な単語が出てきたな。
「あたしの話なんか聞いてもつまらないだけだよ。それでも聞く?」
そう言った莱夢さんの表情は、さっきまでの不敵さは失せ、優しくしたたかなものへと変わっていた。
俺はゆっくりと首を縦に振る。
「そう。悪いね。長い間、愚痴る相手もいなかったからさ」
歩きながら、ということで、俺たちは再び雑草の肥えた森の中を歩き出した。しかしさっきよりもゆっくりな歩調で。
「あたしに呪いを掛けたのはね、あたしの彼氏だった。とはいっても、すでに結納も交わした仲だったけどね」
意外や意外。莱夢さんが照れくさそうに頭を掻いているではないか!
「七百年前、当時のあたしは二十四歳。彼も同い年だった。あたしはその時にはすでに魔女という職業をやっていてね。彼は妖怪退治を専門とする、凄腕の剣士だった」
「やっぱり人間は妖怪を退治するもんなんですか?」
「今は違うよ。ただ当時の人間と妖怪の確執はすごく大きくてね。人間側にとっては妖怪は自分たちを喰らう存在でしかなく、妖怪側にとって人間は、経済的に利用価値のないただの食物としか見てなかったのさ。少しばかり文明の発達した今の桃源郷では、お互い共存し助け合って生きている。妖怪側が、人間は食物にする以上に生産価値があると認めているからね。妖怪だって人間だけが餌じゃない。ま、罪歌園の土地面積が増えて、お互いの対抗意識を削いだって理由もある」
話が逸れたなと、莱夢さんは煙草を一服ふかした。
「それで彼は剣士としての力を認められて、その時一番力を持っていた妖怪を退治するという名誉ある任務を任された。んで返り討ちにあった」
「返り討ちって……」
「たとえ人間で一番力を持っているとしても、一番力を持っている妖怪には勝てるはずはなかったんだよ。それでも彼は命かながら逃げてきた。あぁいや、その時点でもう駄目だったな。なんせ臍から下が無かったんだから」
それでよく逃げて来れたものだ。
「あたしは泣きながら死に際の彼に駆け寄ったよ。それで彼はあたしの耳元で最後の言葉を囁いた。『莱夢、俺がいなくなっても幸せに生きてくれよ』だとさ。冷静になって考えれば、なんて自分勝手な遺言だよ。こっちはあんたがいなくなったら、生きてく理由なんて無くなるのに!
そして彼はすぐに死んだ。それからのあたしは抜け殻みたいなもんだったよ。毎日なにもせず、ただぼーっと過ごす日々だった。自害しようと何度も考えたけど、それをする気力すらなかったな。ホント、痴呆の極限まで達した婆さんのようだった。
けど、ふと気づいたんだ。あたしは何日も何日も、マジで何もしてなかったんだよ。そう、食事さえも睡眠さえも! だけどまったく腹も減らないし、眠たくもならない。常に完全な健康状態だった。まさかとは思い、最初はナイフで自分の腕を軽く斬ってみた。それがすぐに治ったんだよ! まるでナイフが腕を裂いてるんじゃなく、ナイフをなぞることによって、元々あった傷が治っていくと錯覚するほど瞬時にね!
その後の行動は大方想像できるだろ? 最初は体中を切り刻んだりして。次にありとあらゆる毒薬を服用して。最終的には自分の首を切り落としたりして。でも死なないんだよ!傷は瞬間的に治り、毒薬はジュースでも飲んでるかのように何の影響も身体に与えやしない!
つまりその時にはすでに、不老不死の身体になっていたわけだな。そこで考えるのは、何を境にしてそんな身体になっちまったかってことだ。けどそんなことは瞬きする間に分かったよ。彼が最期の言葉を遺した時に、そういえば彼はあたしの額を小突いた、その時だってね。
それで自分にかけられた呪いがどんな物なのか、またその解除法は存在するのか、記される書物を探すために桃源郷中を探し歩いたさ」
「……その方法は見つかったんですか?」
「あったよ。一つだけね。人一人が死ぬ間際に遺す呪いほど強力なものはない。だから間違いなくその方法しかないんだろうな。
ヒントは最期の言葉だった。『幸せに生きてくれ』。つまりあたしが、彼のいないこの世界で幸せになれば自然と呪いは解けるってことだな。けど、それではあまりにも漠然としている。どういう見方で幸せになればいいのかが分からない。
そこで考えられるべき可能性は、あたしと彼の関係だ。恋人同士、いや、もう夫婦だったって言っても世間に通用する間柄だった。そしてその時のあたしは、幸せの絶頂だったよ。
それらの話を統合すれば、目にも明らか。『あたしが彼と同じくらい、もしくはそれ以上に愛する男を見つけて幸せになる』。それがこの不老不死の呪いを解除する唯一の方法だ。書物によっては、愛する男と接吻をすれば解除できるとも書いてあったがな」
なははと、莱夢さんは最後に、軽く笑ってみせた。
「いやー、長い話で悪かったな。完全に愚痴になっちまった。まったく、はた迷惑な話だよなー。自分は先におっ死んどいて、残された女には他の男と幸せになれだもん。次会ったら、絶対あいつの顔ぶん殴ってるぜ」
「……でも、この七百年の間に、その彼以上に愛せる男性はいなかったんですね」
立ち止まった莱夢さんは、驚いたように目を見開いてこちらを振り返った。
「……なかなか勘がいいじゃないか。その通り。あれ以上の男はそうそういるもんじゃない。彼が死んでからの七百年間も、そしてたぶんこれからもよっぽどの運がなけりゃ遭遇しないかもなぁ。……おっと、長らく話してる間に到着したぞ。煙草の火を消せ」
煙草を吸っているのはあなたです。つっ込む前に、莱夢さんの手の平から炎が舞い上がり、煙草は一瞬のうちに灰燼と化した。
しかしここはどこだ。到着と言ったからには目的地なんだろうが、はっきり言ってここまでの道程とあまり変わり映えのない森の中だ。泉までの通い慣れた道とはまったく別の方向なので、俺にはこの場所がいったいどの辺りになるのか見当もつかない。
「声を出すなよ」
「ぐへっ!」
そう言うなら、突然人の頭を掴んで地面に押しつけないでください!
地面とご挨拶しているのは俺だけだが、莱夢さんもまた、なにかから身を隠すように全身を屈めた。怨めしげに視線を上げると、彼女は進行方向を指でさす。
「?」
……声? しかも多人数だ。この先に誰かいるのか?
(ちょっとだけ頭を上げてみろ)
(人……ですか?)
(半分正解。どうやら妖怪も交じってるようだね)
俺たちが身を隠すほんの目と鼻の先は、少し拓いた広場となっていた。森が頭なら、まるで十円禿げのように、そこだけ樹木が生えていない場所だ。小さな空間であるが、その中ではお世辞を言っても小奇麗だとは言いがたい男たちが十人……いや、十五人くらいたむろしていた。
(人間九人の妖怪六人か。厄介だな)
集団の中には、角のあるものやトカゲのような顔をした者もいた。
(人間と妖怪が入り混じって、何なんですか、この集団)
(まあ十中八九、罪歌桃を狙いに来た野盗だな)
(野盗って……)
(旅するサーカス団って場合もなくはないが、今回は絶対に違うだろうな。女がいない)
え、え、どゆこと? なんでこんな所に盗賊がいるの? 凛の話では、ここ二年くらい罪歌桃を狙う輩はいないって言ってたはずなのに。
(それは白蓮に代わって、あたしが盗賊どもを撃退してたからさ)
(は?)
しかし聞き返す暇さえも与えてくれず、莱夢さんはごく普通に、少しばかり友達との待ち合わせに遅れてしまったくらいの気軽さで、野盗の集団へとゲットインしてしまった。
「よーっす、宴会中悪いんだがね、諸君」
突然の闖入者に、一同は莱夢さんの方を向く。中には莱夢さんの美しさに見惚れて唖然とする者もいたが、数人は宴会を邪魔されたことに対する不満の色バリバリで睨み付けていた。ほら、やっぱりやばいって!
「なんだい、ねーちゃん。俺等とともに夜を過ごす志願でもしにきたのかい?」
一人が言うと、一団は一斉に笑い出した。「まだ昼だぞ!」「合格だ、合格!」と叫ぶ者もいれば、卑猥な言葉を連呼する者もいる。総じて下品の極みではあるが。
「いやー、場合によってはそれでもいいかと思ったんだけどよ。お前らじゃ全然駄目だ。一度死んで転生してから本格的に整形でもしないと、あたしとは釣り合いそうにないし」
笑いがピタリと止む。
「おい、ねーちゃん。ここへは何しに来たんだい? まさか森を歩いてて、偶然俺たちと遭遇したってわけじゃないだろ。用があって来たんだろ?」
「もちろんその通りさ。馬鹿みたいな顔してるわりには鋭いじゃないか」
ほらほらそんなに煽るなって! 今喋っている人間のこめかみに、青い線が浮かんでいらっしゃるじゃないですか! その他にも、後ろで抜き身の剣を軽く握っている方もいらっしゃるし!
「てめぇら、罪歌桃を狙いに来た盗賊だろ? だったらちょっと痛い目に遭って、諦めさせなきゃなんねぇな。もし違うって言うんなら、ちゃっちゃと引き返した方が身のためだぜ。片付ける時間くらいは待ってやるからよ」
静まり返る盗賊たち。これは莱夢さんの言った言葉を咀嚼している間なのか、または理解しているからこその困惑なのか。しかしどちらにせよ、次に盗賊たちが起こした行動といえば、漏れるような嘲笑だけだった。
「おいおい聞いたかお前ら、怪我しないうちに帰れだってよ。どうするよ?」
笑いは次第に大きくなる。それは如何に自分たちの方が優位に立っているかを知っているような余裕だった。なんせ十五対一(たぶん俺の姿は向こうから見えてはいない)だもんな。しかも相手は女で素手。不利と思う方がよっぽど難しい。
と、集団の奥で座っている男が、楽勝ムードをぶち壊す一言を放った。
「いや、ちょっと待て。何故我々が罪歌桃を狙っていることを知っている? まさか貴様、李白蓮に代わって罪歌園を守っている、『桃源郷の魔女』……」
その瞬間だった。今まで一番手前で莱夢さんとやり取りをしていた男が、後ろへ吹っ飛んだ。まさしく飛んだ、といってもいい。軽く見積もっても八十キロはゆうに越えると思われる男の巨体が、突如として放物線を描くように後方へと放たれたのだ。その速さも尋常ではなく、爆風にでも当てられたかのような勢いで。ついには木と衝突することによって、男は再び地面に足をつけることができた。しかし尻餅をついた男は起き上がることなく、地面へぐったりと倒れこむ。
果たして今の出来事を正確に把握できた者は、この場に何人いただろうか。俺は理解できていないうちの一人なもので、正確に描写することはできなかった。残されたのは、盗賊の一人が飛んで、木にぶつかって気絶したという事実のみ。
「この展開の運び方は実にいいね。おかげで余計な説明が省けるってもんだ。お察しの通り、あたしは『桃源郷の魔女』。今現在、罪歌園を守っている女だ」
呆然と目を疑っていた盗賊たちの顔が、さっと青ざめた。血の気が引くとはまさにこのことなんだろう。
それにしても莱夢さん。この盗賊たちの反応を見る限り、あなたってとんだ意味で有名人らしいですね。
「で、どうする? 今ならまだ拳骨くらいで済むけど?」
固まった盗賊たちはしかし、莱夢さんの名前を聞いて泣き喚き許しを請うのかと思いきや、それはまったくの見当違いだった。枯れた表情には、少しずつ笑いが戻る。しかしさっきとは異なり、楽しいからのそれではなく、苦渋に満ちた笑み。
「『桃源郷の魔女』か。こいつを倒せば、わし等の名も上がる……」
誰かが言った。おいおい、そういう考え方になるのかよ。
決心を固めてからの盗賊の覚悟は早かった。皆が剣を手に持ち、一斉に素手の莱夢さんを襲う。
「てめぇらごとき、魔法はいらねえよ!」
次から次へと迫りくる斬撃を華麗に避けるのと同時、莱夢さんの鉄拳が一人のどてっ腹を突き上げた。懐に潜りこみ、全身の回転を運動エネルギーに変換したただのアッパーに見えたのだが、どうやらそれは見間違いのようだ。ただのアッパーで、人一人が十メートルも上空に投げ出されるわけはない。
それからの戦闘行為は凄まじいものがあった。
風を切るようなフットワークで男たちの間をすり抜け、拳に込めた一撃のみで相手を沈める。背後を取られれば回し蹴りを放ち、相手の顎を砕いた。そうしたただの流れ作業にも似た戦闘を行っているうちに、地に足をつけている盗賊も半分以下になっていた。
ふと、一番後方で莱夢さんとは距離を取っている、他の盗賊とは比べてはやけに小奇麗な身なりをした男が、両手を組んで何やら呟き始めた。そして瞬きもしないうちに、手の平の上で、バスケットボール大ほどの巨大な火の玉を作りだす。
「へー、呪符使いか。賊にしては珍しいな。けど……」
莱夢さんが瞳をカッと見開いた瞬間、火の玉が暴発した。全身に炎を浴びた盗賊は、前半分を黒焦げにされて倒れる。
「そんなにわか知識じゃ、あたしにとってはごっこ遊びに等しいよ」
「おい、こっちにもう一人いるぞ!」
怒鳴り声がした方を見れば、盗賊の一人と俺の眼が合っているではないか!
うげぇ、ばれた!
「ひっ」
猛ダッシュで接近され、足が地面と一体化しているほど恐怖している俺には、腕を使って後ずさることすらできない。そうしてる間にも男は俺の目の前まで歩を進め、剣ではなく素手で俺の首を掴もうとする。が、
「そいつに人質の価値はないけど、ま、一応な」
盗賊の背後から激しい一撃。頭の位置まで振り上げられた長い足は、軸足の回転力を使って男の横顔へとめり込む。白目を向いたのがはっきりと俺の目に映ったその男は、蹴られた運動方向にまったく逆らうことなく、真横へとふっ飛ばされた。
「情けねえ声上げてんじゃねえよ。最初に大丈夫って言ったろ。ほら、終わりだ」
言ったか? 大丈夫って……。
ともあれ、見渡してみれば、十五人の男たちは例外なく地面へと伏していた。
「殺し……たんですか?」
「は? いやいや、何言ってんだお前。んなわけねぇだろ。誰一人死んじゃいねえよ。最初のやつ以外、気絶すらしてねえ」
本当だ。周りからは苦しそうな息づかいが多数聞こえてくる。黒焦げにされたやつですら、咳き込んで呼吸を荒くしているだけだ。
「莱夢さんって……実はもの凄く強かったんですね。魔女だから魔法かなんかで撃退するんだと思ってましたけど」
「いや、あれは嘘だ。確かに魔法は使っちゃいないが、ちょっとばかし筋力を増強する薬を飲んでてね。本来だったら全身の筋がぶっ潰れて廃人確定の代物だけど、あたしってほら、不老不死だからさ」
「はぁ」
どちらにせよ、あの戦いぶりを見ていた俺としては、今後二度と莱夢さんだけは怒らせないでおこうと心に誓ったのであった。