第1章
桃源郷に迷い込んでから、すでに五回目の朝を迎えていた。日の出から日の出までを一日とするならば、五日という意味だ。時計が無いため、一日が本当に二十四時間なのかも把握できていないのが現状である。
まあそれはいいとして、自給自足の生活は思っていたほど苦ではなかった。屋敷中の掃除や庭の草取り、薪割りなどの力仕事を任されはしたものの、洗濯と三食の支度は凛がやってくれるため、疲れはするが困ることは一度もなかった。
また娯楽の無い未開の地だからこそ暇を持て余すのではないかと危惧していたが、初日の屋敷探索で宝の山を発見してからは、その心配も無くなった。
見つけたのは、亡くなった白蓮の書庫だった。
半分は訳の分からない巻物や書物だったが、もう半分は芥川龍之介や夏目漱石をはじめとする、日本の著名な文学者の書籍が一通り揃えられていた。しかも一九九〇年代に出版された、未だ第一線で執筆している著者の本まである。俺でも知っている小説家だし、いつかは読んでみたいと思っていたものだ。だって一冊の文庫本が軽く千ページを越え、値段も四ケタとか普通の高校生じゃ手が出しにくいだろ。
暇つぶしの手段は解決した。残る問題は一つ。それは下界への連絡方法だ。
両親には一泊二日で富士山登ってくると言っただけなので、これ絶対に捜索願出されているだろうに。お父さんお母さん、桜井カズキは無事です。心配しないでください。……あぁ、電波も届かない世界なのに、念波が届くはずないよなぁ。
そんなこんなで五日目の朝を迎えた今日、凛と一緒に五回目の洗顔を行っていた。
手拭いで顔を拭いていると、隣の凛が少し大きめの手桶を押し付けてきた。
「はい、今日は水汲みお願い。陽が沈むまでに終わればいいから」
「…………」
水汲みかぁ。あの地獄をもう一度かぁ。
ご覧の通り井戸はあるのだが、この下に貯水設備があるわけではなく、山から流れている湧水を掬っているに過ぎない。飲料用や顔を洗う程度なら不便しないが、その他の消費となると、どうしても不足してしまう。生活していくうえで絶対に必要な物だからこそ、なるべく多く蓄えがあった方が良いという考えには賛同できる。
そして水源がどこにあるのかといえば、屋敷の裏手に広がる森の中だ。ここから十分ほど歩いたところに泉があり、そこから新鮮な水を頂いているのである。
ただちょっと想像してほしい。両手に水が満杯に入った手桶を持ち、道なき道を往復二十分も歩くんだぜ。それも何往復も! 初日に一度命じられたのだが、たった一往復で根を上げ、翌日の筋肉痛がマッハだった。俺が憂いた表情を浮かべた理由も、ご理解いただけると思う。
だがしかし居候をさせてもらっている手前、無下に断ることもできない。それにほら、力仕事を女の子に押し付けるのは、男として甲斐性が無いからな。
「分かったよ。どれくらい汲んでこりゃいいんだ?」
「今夜はお風呂に入るから、最低でも風呂釜いっぱいまでは」
「風呂ぉ!?」
そういえば、桃源郷に来てから一度も風呂に入っていなかったな。井戸水を使って身体を拭いていたから、特別意識はしていなかったけれど……風呂釜いっぱい、だと? おいおい冗談はよし子さん。いったい何往復すればええんやねん。
「じゃあ、よろしく。別に急ぎじゃないから、先に庭の草取りが終わってからでもいいよ」
「…………」
ほんの一瞬だけ凛の気遣いに感極まったものの、すぐに勘違いであることに気づいた。暗に今日中に草取りを終えろと言っているようなものだし、なにより風呂なんて絶対に必須でもないからな。雑務を与え続けられる窓際族のような気分だ。
ま、今は生きるための役割分担だ。諦めよう。
***
初めての来客があったのは、太陽が真上まで昇った頃のことだった。
縁側に座り、雑草と土の境目を眺めながら休んでいると、玄関の方から声がした。あまりハキハキとした声質ではなかったものの、凛以外に誰もいないのだから来客しかありえない。
そして凛は今昼食の支度をしているから屋敷の奥だ。俺が対応しなくては。
「あんれぇ?」
玄関前の石畳に、一人の老婆が立っていた。
総白髪の頭の下には、今まで苦労してきたんだなと思わせるしわくちゃな顔。そして歳のせいか異様に似合っている割烹着。夫婦で農業を営む母方の祖父母のことを思い出す。
老婆の身長は、腰が曲がっているせいもあってか、俺の胸元くらいしかなかった。
近づくと、優しげな細い目が俺の顔を見上げた。
「見たことない顔やなぁ。凛ちゃんのお友達かや?」
「えっと……」
返事に窮する質問だな。
友達ではないだろうし、かといって師弟関係でもない。そういえば、祖父の遺言では仙術を学ぶために桃源郷へ来たはずなのに、肝心の白蓮がすでに亡くなっていたから、遺言違反の方面でも悩みどころだよな。
っと、しまった。この状況、老婆からすれば俺の方が不審人物だよな。
「俺はこの屋敷で居候させてもらっている、桜井カズキといいます」
「ほおぉ、居候ぉ?」
目を見開いた老婆が、驚きの声を上げた。どこかで見たことのある顔だと思ったら、某アニメ映画の登場人物に似ていた。リンちゃぁぁぁぁん! とか叫びそうだ。
「今、凛を呼んできますんで」
さまざまな疑問を放り投げつつ、俺は屋敷の中にいる凛を呼びに行った。
老婆と対面した凛の第一声が、これだ。
「あらおばあちゃん、いつもありがとね」
ほんの些細な変化だったが、初めて凛の本物の笑顔を見たような気がした。
見た感じ、凛と老婆は顔見知り以上の関係なのだろう。おばあちゃんと呼んではいるけど、おそらく実祖母ではない。この近辺に住むお隣さんかな。田舎ではよくあるご近所付き合いだろう。
警戒を解いた俺は、そんな二人から離れて再び縁側に腰を下ろした。
玄関先で凛が俺の方を指差すなど、身振り手振りで老婆に説明している。そして五分くらいだろうか。軽く会釈した老婆が、門の方へと歩いていく。
「カズキー! この籠、台所まで運んで!」
「ん?」
呼ばれ、寄る。凛の横に、大きな籠が鎮座していた。
その中には、見ただけでも採れたてと分かるほど瑞々しい野菜の数々。茄子に胡瓜にトマトにとうもろこし。うお、筍まであるよ。なんというか、野菜を見て涎が垂れそうになったのは初めてだ。このトマトなんて、味付けなしにこのまま齧りつきたいくらいだ。
「あのお婆さんは?」
「おばあちゃんは隣の家に住んでて……といっても山一つ向こうなんだけど、こうやってたまに採れたての野菜を分けてくれるの。貴方も、今度会ったらお礼言っといてね」
へー、山一つ向こうのねぇ。おいおいこの籠、持てなくはないけどけっこう重い。これを担いで山一つ運んできたって、おいおいどんなパワフル婆さんだよ。
「じゃあ、それ運んだら昼食にしましょう。草むしりはもういいから、昼からは水汲みお願いね」
「……へいへい」
とうとう地獄が始まろうとしていた。