第5章
翌日、日の出とともに目を覚ました。携帯が示す時刻は午前六時。まったく、健康的な目覚めだ。時計の無い時代の人々の気分を味わっているようでもある。
「さて」
起きてしまったのだから、やるべきことはやろう。畳の上で直に寝てしまったから、頬や額の辺りが痛いのだ。顔を洗うため、井戸へ行こう。太陽とともに起きているなら、たぶんアイツもいるはずだ。
いくら広い屋敷でも、三度も同じ道順を通れば覚える。昨日の記憶を頼りに、俺は玄関から出て井戸の方へと向かった。
「あら、おはよう。下界の人って、もっと朝に弱いと思ってた」
「そりゃ個人差はあるよ」
昨日の夜、あんなけ早く寝りゃな。
井戸端で顔を洗っている凛を見つけたはいいが、俺は少しばかり照れくさく直視できないでいた。私服の法衣ではなく白い空手着で、昨日と違って水に濡れてはいないのだが、どうも帯が緩いのか、襟の辺りがスカスカだ。本人も恥じらう様子がないあたり、もしかしてコイツ、ずっと白蓮と二人暮らしだったためか、肌の露出に抵抗がないのかもしれない。
それはともかく、今は凛に言うべき言葉があって来たんだった。昨夜、寝転びながら考え出した結論だ。といっても、俺に課せられた課題の中で決着をつけられるのがそれだけだったし、しかも他に選択肢の無いものだ。
だからこれは、ある意味確認事項に近い。
「あのさ凛、もし迷惑じゃなかったらさ、下界に帰る方法が見つかるまで、この屋敷に住まわせてもらってもいいか?」
桶から水を救う手が止り、キョトンとした瞳で凛は俺を見据えた。
「いいよ。けど、包丁で寝込みを襲うような女と一緒に暮らしたいと貴方は思うの?」
「もう二度としないんだろ?」
「しない。あんなことするなんて、私自身、どうかしてた」
ふと、凛は水面に映る自分の顔へと表情を落とした。
どうかしてた、か。あの行動は、凛としても本意ではなかったってことか。そして感情と行動が一致しない奴のことを俗に何ていうか、俺には知識だけはある。
ツンデレ、もしくは照れ隠しだ。常識の限度は越えていたけれども。
では凛は何故ツンツンしていたのか、照れていたのか。予想の域は出ないけど、おそらく凛は白蓮が亡くなってからずっと一人だったのだ。知り合いくらいはいるとはいえ、俺のような同年代の人間は皆無だったに違いない。だからこそ凛は、対等に話し合える存在ができたことに喜びを感じていたのだろう。故に、表面上だけは罪歌園を守る使命をまっとうしようと、あのような行動を起こしただけだ。
まぁ、もし俺の独りよがりの妄想だったら顔真っ赤不可避なんだけれども。だからちょっとだけ保険をかけておく。
「心細い時とかあったらさ、俺が話し相手になってやるから……」
くっそ恥ずかしかった。しかも声が小さすぎて、たぶん凛の耳には届いていない。
もう一度言うべきか迷っていると、ジャバジャバと音を立てて顔を洗っていた凛が、最後に桶の水を頭から被った。何やってんだコイツ。目は覚めるかもしれないけど、そもそも昨日目撃したのも禊なんかではなく、ただの目覚ましだったんじゃなかろうか。
凛の奇行をぼんやりと眺めていると、身体をべたべたに濡らした彼女が、空の桶を押し付けてきた。
「はい」
「お、おう……」
まいったな。井戸なんて使ったことがない。滑車で桶を中に降ろしてから、どうやって水を汲めばいいんだ?
使い方をご教授願うために凛を呼び止めようとすると、彼女は俺に背を向けて立ち止まっていた。そしてわずかに横顔を晒しながら、「ありがとう」と小さく唇を動かしたようだった。
「まったく……」
角に消えた凛の姿を見据えながら、俺は自分でもキモいと感じる笑みを浮かべていた。
素直じゃないなぁ、本当に。面と向かって言えばいいのに。
「さて」
今から追って、井戸の使い方を教えてもらうのは少々気まずくなってしまった。
まぁいいや。帰る方法を発見するまで、俺はこの桃源郷で暮らさなければならない。少しくらい、自分で考えて行動することを身につけよう。
とりあえず第1話はここで終わりなので、しばらくは更新しません。