第4章
「一部の界隈で、桃源郷が理想郷って呼ばれてるのは知ってる?」
「理想郷? あぁ、ユートピアのことだろ?」
「ユートピア? 横文字は知らないけど……まぁ同じ認識ならそれでいいわ」
下界に帰る方法を何度も試した後、結局諦めた俺は、再び座敷で凛と向かい合って座っていた。とはいっても、実はあれから三十分くらい時間が経過している。
あれだ、どうして手持ちのモンスターが全滅しただけで目の前が真っ暗になるのか不思議に思っていたが、やっと理解できた。今まさに俺がその状態なのだ。深い絶望は時の経過を認識させなくなる。怖いね。
「理想郷とはつまり、誰もが幸せに生活できる世界のこと。でも変じゃない? 桃源郷には多くの人間や妖怪が生きて暮らしている。種族が違えば生き方も違うし、同じ人間同士だって考え方が一緒だとは限らない。普通に考えれば、誰もが一様に幸せになるなんてのは不可能なのよ」
「まぁ、そうだな」
生返事になってしまったのは、俺が未だ絶望から立ち直っていないのでご容赦。それにさらっと妖怪という単語が聞こえたが、今は追求しないでおこう。
「桃源郷を理想郷たらしめる理由はコレ。罪歌桃のおかげなのよ」
と言って、凛はさっき果樹園から毟り採った、立派に実った桃を机の上に置いた。
「この桃が?」
「厳密に言えば、ここら辺の土地が重要なんだけどね。桃はただの副産物」
「どういうことだ?」
「行き過ぎた欲が人に罪を犯させる。身の丈に似合わない欲を持つからこそ、人は他人を傷つけたり虚構を造り上げたりする。小さい物ならまだしも、塵も積もれば大きな争いを生むことだってある。この辺の土地はね、桃源郷に住むすべての生命の強欲、そして犯してしまった罪を吸い上げてるの」
「欲や罪を吸い上げる?」
「理屈や理論は未だ解明されてはいないけどね。というより、誰も解明しようとは思わないでしょう。桃源郷を理想郷とする仕組みが、不思議なことを解明しようという人間の知的好奇心すらも吸い上げているだろうし。誰もが今の生活に満足してしまっているのよ」
なるほど。だからこそ、桃源郷の技術は下界よりも百年から二百年も遅れているのか。現状に満足し、かつ知的欲求が無いのならば、誰も進歩しようなどとは思わないだろうから。
「桃源郷中の欲や罪を養分として育ったのが罪歌園であり、その副産物が罪歌桃なの」
「その罪歌桃を食べたことと、俺が帰れないこととどう関係があるんだ?」
「桃源郷の罪は下界へ持ち帰れないってこと。たった桃一個でも、相当の欲や罪に塗れているわけ。今の貴方は、桃源郷の罪で穢れているの。だから帰れない」
「そんな……」
まさか桃一個食べただけで、こんなことになろうとは。
凛と初めて相対した時も相まって、禊という方法も思いついたのだが、それだけで罪が洗い流せるとは思えないし、なにより凛が説明しているはずだ。本当に帰る方法は無いのだろうか?
「とはいっても、人間が抱える欲や犯した罪には個人差がある。たまに罪歌桃を狙ってくる、欲多き輩がいるのよね。私やおじいちゃんは、そんな輩からこの果樹園を守っているのよ。自分で食べるならともかく、金銭目的で罪歌桃をばら撒かれたら、街や都が混乱してしまうわ」
「あぁ、だから最初、俺を泥棒か何かと勘違いしたのか」
「あながち勘違いでもなかったわけだけど」
勝手に食べたことについては許してもらったはずなんだけどな。ジト目で睨む凛がちょっと怖い。
「食べたから知ってるでしょうけど、罪歌桃ってとても甘くて美味しいのよね。それに味だけじゃなくて、栄養も豊富。あれを一日三個食べるだけで、普通に生きていけるわ。もちろん栄養が偏るのは否めないけど」
「確かに美味かった。ありゃバカ売れするだろうな」
「えぇ、だからこそ流出は全力で阻止しないといけない。味を覚えてしまった人たちが、また罪歌桃を盗りに来て……っていう悪循環は、桃源郷の崩壊を促すわ」
味を覚えるというよりも、欲そのものである罪歌桃を食べたことによる汚染の方が強いだろうな。今までが無欲だった分、急激に摂取した強欲は罪の衝動を起こしやすいだろう。争い事が無いことが理想というのならば、罪歌桃の流出が桃源郷の崩壊につながることは目に見えている。
ふと向かい合っている凛が気がかりになり、訊いてみた。
「凛は大丈夫なのか? さっきも一日に三個は食べてるような言い方だったけど」
「私は大丈夫よ。禊を怠ったことはないし、もう慣れた」
慣れるようなことなのだろうか。ま、本人が問題ないと言っているのだから気にしても仕方がないだろう。
「と、いうわけよ。貴方が帰れない理由、分かった?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
これで話は終わりだと言わんばかりに立ち上がった凛を、俺は慌てて引き止めた。
「俺は……俺はどうすればいい?」
心なしか声が震えていた。当然だ。二度と家に帰れないのだ。自分の甘い考えが招いた結果だとは思いたくない。こんなことになるなんて、誰が予想できただろう。
言うなれば、細心の注意を払っていたにもかかわらず、人を撥ねてしまった運転手のようなものだ。度々ニュースで見るひき逃げ事件で、ひいてしまったのはともかく逃げるなよといつも思ってはいたが、その気持ちがなんとなく理解できそうだった。夢みたいな不運が舞い降りた今、割と本気で現実から目を背けたくなる。
「どうするもこうするも、下界に帰れないんじゃ桃源郷に住むしかないんじゃないの? 言っておくけど、甫劉の遺言もあるし、この屋敷に住むって言うんなら食事くらいは出すわよ。ただそれなりに雑用もやってもらうけどね。ちなみに出て行くなら、貴方が罪歌園を越えるまで監視させてもらうわ。また罪歌桃を盗られたら敵わないものね」
凛が早口でまくしたてたが、後半は選択肢としてあり得ないので聴いていなかった。桃源郷などという未知の世界で生きていけるほど、俺はサバイバル根性に溢れてはいない。
ということは、この屋敷に、住むことに、なる。
一語一語自分に言い聞かせ、和室内を見回した。
電気もガスも水道も通っていないこんな未開の地で、一生? いや……そんなはずはない。
「悪いが、少し考えさせてくれ」
「そうね。じゃあこの部屋を好きに使ってもらって構わないわ。布団はそこの押し入れの中にあるけど、埃が積もってるから自分で何とかすること。あと、屋敷の中とか庭とか自由に歩き回ってもいいけど、広いから迷わないように気を付けてね」
「あぁ、悪いな」
「じゃあ、私は日課があるからこれで」
そういえば、禊の途中で邪魔をしてしまったんだった。
一人になってしまった和室で、俺は畳の上で大の字になって寝転んだ。木目も確認できないほど薄汚れた天井を遮断するように、瞼を閉じる。
聞こえてくるのは鳥の囀りや、風が草木を凪ぐ音。人の声も飛行機や車の騒音も工事現場みたいな機械的な轟音も何も無い。あるのはただ、世界に身を任せただけの揺らぎだけだ。
こういう穏やかな生活も悪くはない。ただ、今まで俺が築き上げてきた物を捨て去ってまで手に入れたいとも思わない。旅行は終わりがあるから楽しいのだ。まさか自分が、祖国へ帰れず空港から出られなくなった映画の主人公のようになるとは思わなかった。
「いや……」
わざわざ声に出して、改めて否定する。
帰れないわけはない。よくよく考えれば、甫劉と白蓮は友人同士なのだから何度も顔を合わせているはずだ。甫劉が下界、白蓮が桃源郷にいる現状、彼らがどちらの世界で友情を深めたのは定かではないが、少なくとも片方は桃源郷から下界へと下りているはず。そしてこの場所に屋敷を構えていて、果たして彼らは罪歌桃を一度も食べなかったか。凛が言うには、一日三個も食べれば十分な栄養を賄えるという。そんな便利な食べ物、知らず知らずのうちに食べていてもおかしくはない。
何か他に方法があるはずだ。何か……。
「…………」
徐々に音が遠くなっていく。静寂がやがて無音になり、意識が飛んだ。
瞼を開けると、天井が闇に埋もれて見えなかった。慌てて携帯を確認してみる。時刻は六時ちょうど。桃源郷と下界の時刻が一致しているかどうかは知らないが、少なくとも携帯の表示と季節はズレているようだ。真夏の六時にしては暗すぎる。
「意外に見えるもんだな」
夜空から煌々と照らす月と星の明かりが、屋敷の塀や雑草の輪郭を鮮明に浮き上がらせていた。また、至る所から鈴虫の音が届く。桃源郷では今、半袖でいると少し寒気がする季節のようだ。
「トイレはどこだ?」
広い屋敷とはいえ、トイレを見つけられないならまだしも、迷うなんてことはないだろう。運良く凛に会えたら場所を尋ねればいい。横文字がダメだと言っていたから、トイレじゃなくて確か厠、だったかな。
軽い闇が落ちる和室で身を起こした俺は、トイレを求めて立ち上がった。襖を開けてから、驚いてわずかに身を引く。廊下に凛が立っていたからだ。
「っわ、ビックリした。凛、お前そこで何やって――」
刹那、視界が回転する。凛の顔が下へスライドしていったと思ったら、再び天井とご対面していた。
「痛っ――!」
反射的に受け身をとることができず、したたかに肩甲骨を打ち付けた。
前にもこんなことがあったなと考える暇があり、なおかつ昼の出来事だったなと思い当たるまでに至った。ただあの時と違うのは、凛が覆い被さるわけではなく、ただ無防備な俺の肩を突き飛ばしたこと。そして逆の手には――包丁が握られている。
「……おい」
刃物を認識した瞬間、背中全面から寒気が湧き上がった。
ゆらりと、柳が揺れるくらいのゆっくりな動作で凛が一歩踏み出す。身体の軸が定まっておらず、全身を左右に揺らしながら、二歩三歩と俺の元へと近づいてくる。
振り上げられた包丁に、月明りが反射する。
凛の表情は暗くて見えない。
不意に恐怖映像でも観せられた俺は動けず、両腕で防御を作ることしかできない。
無慈悲な刃先が俺の顔面めがけて振り下ろされた。
俺の耳元で、ザシュッと畳が悲鳴を上げた。
硬直。昼間の延長戦のように、覆い被さる凛と混乱する俺。
だがしかし、今度は俺の方が一手早かった。遅刻寸前の毛布を投げ飛ばすように、凛の両肩を押さえ、横へと退ける。手から包丁が離れるのを確認。意外にも抵抗せず身を任せるように投げ飛ばされた凛の身体は、思った以上に軽かった。
このチャンスを逃がさない。追い打ちをかけるようにして、俺は凛を押し倒した。形勢逆転であり、昼ともまた逆の体勢になった。
「おいっ」
何のつもりだ!
怒鳴るつもりの言葉が、不意に飲み込まれてしまった。
月明かりで照らされた凛の頬に、涙が伝っていたからだ。
一瞬の躊躇が、今度は俺の一手を奪われた。
「私は……なんなの?」
わずかに動いた凛の唇から、言葉が紡ぎ出された。
しかし意味は理解できない。私はなんなの? お前は……なんだ?
「……何が言いたいんだ?」
「私はここで何してるの? 私は何をすればいいの? 私は何のために生きてるの?」
「それは……」
一瞬、記憶喪失か? とも疑ったが、どうやら違うようだ。昼に話した感触では、特別異常があるわけではなかった。おそらく凛は記憶を失ってしまったのではなく、哲学の分野の問いかけをしているのだろう。
そんな高尚な学問の解答を、一介の高校生である俺が持ち合わせているわけはない。月並みの言葉で返すしかなかった。
「誰も自分が何者かなんて完璧に理解している奴なんかいないし、それを知るために生きてるんだろ」
「そうよ。私には罪歌園を守る義務がある。でも何か特別なことをするわけじゃない。罪歌桃は虫も寄り付かないから管理する必要もないし、私一人になってからは、桃を売りさばこうと企む悪い奴らも誰一人として来ない。おじいちゃんが居た頃は、定期的にやって来て追っ払っていたのに」
「ん?」
私一人? おじいちゃんが居た頃?
「ちょっと待て。白蓮さんって、今どこに……」
「死んだわ」
死ん……だ?
「ちょうど二年くらい前よ。原因は知らないけど、埋葬を手伝ってくれた知り合いの魔女は事故だって言ってた。それから私一人、この罪歌園を守ってるの」
凛には悪いが、後半の言葉は俺の耳を素通りしていった。
白蓮は二年前に死んでいた? 馬鹿な、時系列が合わない。一ヶ月前に亡くなった俺の祖父、甫劉は、遺言で白蓮の弟子になれと言っていた。その時点で白蓮はすでに亡くなっていた?
いや、ただ単に、甫劉が白蓮の死を知らなかっただけの可能性もある。確か祖父は、二年くらいはまともに家から出ていなかったような気がするし。
「おじいちゃんも居なくなって、悪い奴らも来なくなって、私一人。ずっと一人で生きているだけ。ねぇ、私は……なんなの?」
生きているだけの人間の価値、か。
世間にとってプラスでもマイナスでもない存在。誰かのためではなく、ましてや自分のためにすら生きない存在。自分一人。苦も無く楽も無く、逆に苦が無いことが楽であり、楽の無いことが苦になる生活。涙が零れなければ、虹は出ない。
はっきり言って想像を絶する。未熟な俺には理解もできない。
だから素直にこう答えた。
「知らん。俺は……お前じゃないからな」
「そう」
特に反抗することもなく、凛は涙に濡れた瞳を、そっと閉じた。
そしてゆっくりとした動作で立ち上がろうとする。凛の両肩を押さえつけていた俺は抵抗せず、素直に横に退いた。去り際、彼女は畳に刺さった包丁を回収したが、これ以上悶着は起こらないという確信はあった。
そもそも本当に俺を殺したいという意志があったのなら、襖を開けた時点で刺していたはずだ。おそらく彼女は、自らの存在意義を示すために、俺という初めて相対した不審者を捕えたかったのだろう。しかし俺に敵意や悪意が無いのを理解しているため、敵愾心を抱かないまま行動だけを起こしただけだ。
去っていく小さな背中を何とも言えない心情で見送ると、不意に凛が振り返った。
「襲ったことは謝るわ。ごめんなさい。もう二度としない」
「あぁ」
涙は拭ったのか、沈んだ表情には水分の輝きは無かった。
「それと夕飯持ってきたから。食べ終わったら、お盆を廊下に出しといて」
「あぁ」
俺の生返事を聞くだけ聞いた凛は、さっさと部屋から出て行った。
廊下に這い出て、用意してくれた夕食を有難く頂戴する。木製のお盆の上にはご飯と山菜の入った汁、漬物にひじきに五目豆、そして一個を四等分に分けられた罪歌桃。覚悟はしていたが、精進料理に丸々一個の桃は不釣り合いだし、帰れなくなった原因である果物を出されるのは少々複雑だった。
だが、食べなければならない。生きるために。
高校男児にとっては量の少なすぎる夕食を速攻で平らげ、お盆を廊下へ出した。そして再び畳の上で仰向けになる。
考えることはたくさんあった。
下界へ帰る方法。白蓮の死。祖父の意図。これからのこと。
そして――凛の涙。
結論の出ない課題があまりにも多すぎ、なにから悩めばいいのかすら判断できないうちに、いつの間にか俺の意識は再び眠りの中へと落ちていった。