第3章
井戸の側で手持無沙汰に待っていると、着替えを終えた李凛が戻ってきた。現代日本で十六年生きてきた俺にとっては、少女の姿は少しばかり珍妙であり、思わず友人と会話する気軽さで訊いてしまう。
「それは普段着なのか?」
「そうだけど。むしろ下界の着物の方が奇妙極まりないと思うけど」
俺は登山途中だったから普段着とはまた違うんだけれども。
凛が着ていた着物は、臙脂色の法衣だった。袈裟も無く袖口も小さいので、一見すると無地の浴衣だが、同年代の少女が普段着として使用しているのは異様だ。一ヶ月ほど前、祖父の法事で見た坊さんと比べると、どうしても違和感が拭えなかった。
凛の案内で屋敷の中へ入る。少し広めの典型的な日本家屋で、桃源郷だからといって何か特別な物があるわけではない。ただ外観から予想外だったのは、意外と屋内はしっかりしているということだ。住人が居たと知った今では不思議ではないが、先に荒れ果てた庭を目の当たりにしていたから、てっきり屋敷内も廃墟同然だと勘ぐっていた。
しかし屋敷の大きさに対し、一番重要な存在を察知することができず、少々不安を覚えてしまう。
「なぁ、他に住んでる人はいないのか?」
「今は私ひとり」
前を歩いている凛が、振り返りもせず短く答えた。
一人とはどういう意味だ? 住人は全員出かけているのか? それとも少女一人でこの屋敷に住んでいるのか? いや、少なくとも李白蓮は居るはずだ。彼は今この屋敷にはおらず、そして廊下の隅に溜まった埃を見れば、それほど多くの人間が住んでいないことも分かる。もし白蓮と凛の二人暮らしならば、この屋敷は広すぎだ。
八畳ほどの和室に通された。家具らしい家具の無い一間で、木製のテーブルと座布団があるのみ。応接用の部屋かと思うも、縁側の先の荒れ果てた庭は、来客の気分を損ねるには十分だった。
「それで、貴方が桃源郷に来た目的だけでも聴いてあげるわ」
ふてぶてしく上座に腰を下ろした凛が、ぞんざいな態度で言った。
こちらとしても招かざる客なわけで、丁寧なおもてなしは願っていない。不機嫌な凛の態度に、畏れ半分イラつき半分で事の成り行きを説明した。
「ふーん。杜甫劉が逝去、遺言に従って孫である貴方が白蓮に弟子入り、ね」
祖父の遺言書を読み終えた凛が、静かに机の上に置いた。
成り行きの説明と言っても、話した内容はここに至った経緯のみだ。俺自身、未だここが桃源郷だということを信じ切れず混乱中なのだから、自分が見聞き体験したこと以外に話せるはずがなかった。
「なぁ、もう一度訊くけど、ここって本当の本当に桃源郷なのか?」
「はっきり言っとくけど、下界から来た人にそんなことを尋ねられたのは初めてよ。もしかして貴方、自分の住んでる地域から一度も出たことがない人?」
「それは……どういう意味だ?」
「ここが桃源郷であることは私にとっては当たり前のことだし、かといって証明できる物は何も無い。私の口だけ」
あぁ、そういうことか。
俺の家にも住所はあるし、地図を見れば自分の家を発見することもできる。それは俺にとっては当たり前のことだ。けれどもし住所が無かったら? 自分の住んでいる地域を指し示す指標が無かったら? 俺の住んでる国、県、市を示す証拠は、実際に住んでいる俺の言葉だけになる。……デカルトかよ。
ある程度の納得を得ると、「でも……」と呟いた凛が思案顔になった。
「桃ってどこから桃なのかしら?」
「どこからって?」
「例えば、苗木を植えて樹に成長する。花が咲いて実が生る。実が落ちて種が地面へ植わる。そこからまた苗木になって……って感じで循環するわけだけど、それ全体で桃なのかってこと」
「一般的には実だけが桃って認識かな」
「そう? じゃあ桃の実って、どこまでが実なの? 皮や種は?」
「それは……」
なんだか小さな子供の屁理屈攻めにあっている親の気分になってきたが、この李凛という娘、見た目は幼くとも、佇まいはしっかりとしている。俺をからかう意図ではなく、何か意味のある問答だろう。
「皮や種は桃の一部、って感じだろうな。あくまでも俺の認識だが」
「じゃあここは桃源郷の一部ってことね」
腕を組んだ凛が、何故かドヤ顔で話を締めくくった。
意味を捉えきれず、ついつい首を傾げてしまう。
「この場所は桃にとっての皮や種と同じ? 桃源郷という世界の核があるとか、下界との境界線があるとか?」
「そうじゃなくて、ただ端っこにあるってこと。桃はあくまでもたとえ話なんだから」
得意気に人差し指を立て、舌の滑りが良くなった凛が意気揚々と説明を始めた。
「貴方がどこから歩いてきたのかは知らないけど、この辺って山や森ばっかりだったでしょ? でも桃源郷にも町や都はある。下界との文明の差が百年から二百年くらいあるってお爺ちゃんが言ってたけど、私は下界のことは何も知らないから何とも言えない」
お爺ちゃん。不意に出たその単語が、少女の雰囲気をさらに幼く見せた。
「なるほどな。つまりここは文明の発達していない桃源郷の中でも、さらにド田舎ってことなのか」
「ド田舎。まぁ否定はしないかな」
言ってしまってから失言だと思ったが、凛の表情が変わったわけではないので良しとしよう。
だが、どうしたものか。どうやらマジでここは桃源郷(仮)らしい。ということは、祖父が漏らしていた晩年の戯言も、あながち嘘ではなかったのかもしれない。ヤベェ、今になってようやく先人の言葉の重要性に気づいた。じいさん、他に何か言ってたっけ……。
「じゃあ弟子の話なんだけど……」
「ちょ、ちょっと待った!」
話の腰を折られて気分を害したのか、凛が唇を尖らせた。
「確かに俺は白蓮さんに弟子入りするために桃源郷へ来た。でも桃源郷なんて異世界、最初は信じてなかったんだよ。弟子入りを口実に、一泊二日の旅行をしてみただけだ。本当はじいさんの遺言を遂行する気も、ましてや仙人になる気もない。半分騙されたようなものだ」
弟子入りしたくないという旨を、一気にまくしたてた。自分ではしっかりと理論立てた拒絶のつもりだったのだが、混乱が言葉の核心を覆ってしまったのだろう。半眼でこちらを睨み、続きを促す凛の言葉が、如何に俺の主張が的を射ていないのかを教えられた。
「それで、結局は何が言いたいの?」
コイツ……なかなか大人だ。駄々っ子のように自分の主張ばかりを押し通そうとしていた自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
羞恥心が冷静さを生み、浮かせていた腰をおろした俺は、声を低くして答えた。
「弟子になろうがなるまいが、一度家に帰りたい」
「帰ってどうするの?」
「それなりの用意もいるだろうし、なにより親を心配させるのは勘弁だ。両親には一泊二日の旅行とだけ言ってあるだけだしな。携帯も繋がらないんじゃ、一度帰るしかない」
「はぁ。こちらにとっては急に弟子にしろと押しかけといて、認めたら認めたで家に帰りたいという、理不尽極まりない我が儘を相手しているのだけど?」
んなこたちゃんと理解してる。けど俺だって、桃源郷入りは不本意で不可抗力の出来事だったんだ。俺の境遇も理解してほしいとは言わないが、我が儘くらい言わせてくれ。
「ちなみにケータイってのがあれば、家族と連絡が取れるの?」
「携帯は持ってるし電池も十分にある。ただ圏外で電波が届かないだけだ」
富士山も場所によっては電波が届くのだが、ここは桃源郷だ。繋がりやすさナンバーワンを謳う携帯会社でも、さすがに異世界までは保証できなかったらしい。
リュックの中からスマートフォンを取り出し、凛に渡した。
「この薄っぺらいのがケータイ? こんなんで連絡が取れるの?」
「電話でもメールでもSNSでもいいんだけどな。電波が届かないんじゃ、ただの精密機械の塊だ」
「電話? 嘘をつきなさい。線が繋がってないのに通話できるわけないでしょ。私が下界知らずだからって、あまり調子のいいこと言うと怒るわ」
すでに怒ってそうな凛が、スマフォを投げて返した。なにしやがる、高いんだぞ!
しかし電話自体は知っているんだな。文明が百年から二百年遅れている桃源郷でも、都には電気や水道くらいは通っているのかもしれない。あぁ、昔に人が今の技術を目にしたら、こんな反応するんだなぁ。
ちなみに俺は昔、自分が生まれる少し前に普及していた携帯を両親から見せてもらったことがある。その時に抱いた感想が『これ、ただの子機じゃん』だった。急激な文明の発達は、時に世代の壁になるものだ。
「ま、言い争ってても時間の無駄ね」
天井を仰いだ凛が、大きく溜め息を吐き出した。
「私としては別にどうしても貴方に弟子に来てほしいわけじゃないし、帰りたければ帰れば?」
「弟子になるのは白蓮さんの、だけどな」
だが帰ってもいいと許可を得たので、お言葉には甘えさせてもらう。もちろん、最も重要な懸念事項を忘れたわけではない。
「えっと、あの、帰り方は?」
「通行手形を胸に抱いて、自分に馴染み深い下界の場所を思い描きながら念じれば簡単に帰れるわ。あぁ、あと出口ね。その場しのぎの手作りでもいいけど、境界を繋ぐ門をくぐる必要がある。おじいちゃんは、この屋敷の総門が一番無難って言ってた。ついていらっしゃい」
そう言葉の尾を締めると、立ち上がった凛がさっさと行ってしまった。素っ気ない娘だなと思うも、突然弟子にしてくれと押しかけてきた男に愛想よくする方が気持ち悪いか。いや、たとえそれを差し引いたとしても……。
(どこか作り物みたいな感触なんだよな、あの無表情)
笑顔や泣き顔をどこか作り物っぽいと感じたことは多々あるが、意味もなく機械的に振る舞う人間と話すのは初めてだった。ということは、元々の凛は感情豊かな性格なのだろうか?
いや、ま、どうでもいい。性格にも感情にも、各々の事情があるのだろう。出会って数十分の俺が詮索するのは厚かましすぎる。
そうこうしているうちに、廊下を歩く凛の足音が遠ざかっていく。こんな広い屋敷、案内無しでは迷子確定だ。慌ててリュックを持ち上げ、急いで凛を追った。
玄関から外に出て、石畳を渡る。腐りかけの門は、意外にもすんなり開いた。
「ここをくぐるだけなのか?」
「そうよ」
「この先は……下界のどこに通じてるんだ?」
「さぁ? 私は下界に降りたことがないから知らない。最初に桃源郷へ入った場所か、強く念じた場所じゃないの?」
富士山か自分の部屋か。まぁ、問題はない。
登山用のリュックを背負い、通行手形を胸に抱いて、俺は今一度凛の顔を見た。
「じゃあまたな、凛。白蓮さんによろしく。次はいつ来れるか分からないけど……初対面の俺に親切にしてくれて、ありがとな」
「――ッ!」
途端に、凛が頬を赤く染めてそっぽを向いてしまった。
あぁもしかしてコイツ、お礼を言われ慣れてないのかな。俺のクラスにも、ちょっとお礼言っただけで照れる奴いるし。
と思ったが、どうやら違ったらしい。
無意識なのか、凛が俺のシャツを指でつまんでいた。
「凛、どうした?」
ビクッと背中を揺らした凛が、慌てて指を放した。
もしかして……名前に反応しているのか?
「ごめんなさい。男の人に名前で呼ばれるの、すごく懐かしい響きだったから」
慣れてない、ではなく懐かしい、か。白蓮は普段、凛をなんて呼んでいるのだろう。
ともあれ、俺としても少しばかり迂闊だったかもしれない。出会ったばかりの女の子を下の名前で呼び捨てなんて、どこのプレイボーイだよ。でも呼びやすいよな、凛。昔そんな名前の女の子が近くにいたのか、俺にとっても馴染み深い響きだ。
「さっさと帰りなさいな。別にもう二度と来なくても構わないわよ。弟子に取るのも面倒なだけだし。ただ来るなら来るで、今度は玄関の前で待ってなさい。急に目の前に現れるのって、本当に驚くんだから」
「悪かったよ」
そういえば禊を邪魔してしまったことや、あられもない姿を見てしまったことに対する謝罪がまだだったな。ま、それらについて怒ってる様子もないし、忘れてしまってるようでもあるので、掘り返すのはやめておこう。
突然の来訪にもかかわらず親切してくれた凛に感謝し、なんとなく目を閉じてから総門の敷居を跨いだ。
風が頬を撫でる。どうやら室内ではないらしい。ということは、気を失った富士山の登山道か。今から下山するのはちょっとしんどいなぁと思いつつ、瞼を開けると……目の前に桃の果樹園が広がっていた。
「?」
振り返る。腐りかけた総門の向こう側で、不思議そうに首を傾げた凛が佇んでいた。
「もう一回」
ちょいちょいと、凛が手招きするので再び試してみる。結果は同じ、歩数だけ俺が凛に近づいただけだった。
「なにか間違ってるんじゃないのか?」
「こんな簡単な手順、間違うわけも忘れるはずもないわ。ちょっと通行手形見せて。偽物かもしれない」
「これが偽物だったら、俺が桃源郷にいる理由が分からないけどな」
しかしもしかしたら壊れてしまった可能性もあるし、一回きりの使い捨てなのかもしれない。不安を抱きながら凛の顔を見つめていると、彼女は通行手形を弄んでいる手を止め、はたと気づいたように顔を上げた。
「まさか貴方、罪歌桃を食べたんじゃないでしょうね?」
「え?」
実は凛の第一声であるサイカトウというのが、ここら一帯になっている桃の種類であることには気づいていた。そして凛や白蓮が、桃の所有者であることも、なんとなく。だからこそ、桃の話題には一切触れなかったのだ。最初、俺は無思慮にも桃を盗って食ってしまったのだから。凄まじい勢いで尋問してきた凛に迫られてしまったから、余計に言い出しづらかった。
だけどどうして今、桃の話が出てくるんだ?
疑問に思うよりもまず、責めるように睨みつける凛の視線に物怖じし、弁明に走ってしまった自分が情けなかった。
「いや、ほら、仕方なかったんだよ。最初はまさか人が住んでるとは思わなかったしさ、早いうちに食料を確保しとかなきゃならないから。勝手に食べたことは謝るけど、俺だって死ぬかもしれない瀬戸際だったんだ。できれば分かってほしい」
身振り手振りで慌ただしく言い訳する俺とは対照的に、半眼でじっと睨んでいた凛は、「ハァ」っと短く溜め息を漏らしただけだった。
「別に罪歌桃を食べたことについては咎めないわよ。私だって食べてるし。街や都で売るのが目的じゃなきゃ、いくらでも採って構わない。ただ……」
通行手形を投げ返した凛が、声を低くして言った。
「残念なことに、罪歌桃を口にした者は下界に降りられないわ」
「下界に降りられない? 帰れないって……ことなのか?」
「えぇ、二度とね」
二度と帰れない? 家に、カエレナイ?
瞬間、目の前が真っ暗になったような錯覚を覚えた。