第2章
「ん……、ん、ん?」
自らの気持ち悪い呻き声をきっかけに、意識を取り戻した。
葉と葉の間から差し込むうららかな日差しが眼球を刺激し、瞼を開けるのに少しだけ時間を要した。どうやら地面の上で仰向けに寝転んでいるようだ。雑草の匂いに嫌悪しながら、上半身を起こす。
手の甲で瞼をこすっていると、意識を失う前の記憶が次第に蘇ってきた。
そうだ。確か俺は、富士山の途中で倒れたんだった。
「ここは……どこだ?」
鮮明になった視界で周囲を見回すと、そこは見知らぬ森の中だった。
おかしい。俺の中の常識では、気絶した後に目にする次の光景は見知らぬ天井だというのに。他の登山客は、俺を路傍の石か何かと勘違いしたのか?
いや、そもそも何故森の中にいる? 俺が登っていた登山道は、少なくとも森の中を通り抜けるようなルートじゃなかったはずだ。
おもむろに携帯を取り出してみる。圏外。んなバカな。
まさか遭難……?
「……そうなんです」
マズい。下らない駄洒落で微笑んでいる自分がいる。人間、状況が切羽詰まっているほど笑えてくるのは、どうやら本当のようだ。
どうにもこうにも、このまま衰弱死する気が無いのなら行動しないわけにはいかない。遭難したら動かないで救助を待つのがセオリーではあるが、そもそも気絶前後の場所から間違っているため、常識は通じないだろう。少なくとも、ここが未だ富士山の山中なのか否かを確かめたい。
そう決断し、弱々しい足腰で立ち上がる。
「痛っ」
木の枝が頬に刺さった。ずいぶんと小さい樹だなとと思いながらも、目の前に現れた果実を見て納得する。空を覆いつくすほどの青葉には、数多くの桃が生っていた。
「桃? まさか……」
瑞々しく実った果実を手に取るのと同時に、頭の中で電球が煌めいた。
桃。桃色の霧。桃源郷。そして祖父の遺品である通行手形。それらが意味するところはつまり……。
「まさか本当に桃源郷に辿り着いたのか?」
いやいやいや、そんな『まさか』が存在するはずがない。桃源郷なんて馬鹿げた異世界が本当に存在するならば、現代の科学で発見されているはずだ。なんせ今の時代、人間は月を歩くことだってできるんだぜ。
何かの間違いだ。あぁ、そうかこれは夢なんだ。実際にはまだ気絶している最中なんだろう。よくある高山病ってやつだ。きっと頭に酸素が回らなくなって、脳内物質が大乱闘を起してるんだと思う。
ただ残念なのは、夢だろうが現実だろうが、この近辺には人が住んでいないことだ。桃を栽培するには確か、実を害虫から守るために袋掛けしなければならない。ここら一帯の桃を見る限り、人が手を加えた様子はないので、つまりこれらは自然物なのだろう。富士山中に桃が生るなんて話は聞いたことがないが。
とりあえず歩く。幸いにもコンパスは持っているので、北へと一直線には歩ける。
にしてもこの桃、滅茶苦茶美味い。現代っ子らしい味覚を持った俺は、どんな果物でも缶詰が一番だと思っている節があるが、この桃はそれらをはるかに凌駕する。缶詰の汁がそのまま一個の実に凝縮されているように、皮を剥けば実がとろけてしまうんじゃないかと思うほど。砂糖のように甘く、かとって水あめのように粘度があるわけではない。果実を押し潰すと滴る水分が、そのまま桃の天然水となっている。
カロリーは高そうだが、願ったり叶ったりだった。もし数日救助が来なくとも、桃だけで何ヶ月も生きていけるような気さえした。
しかし悩みは杞憂に終わった。
歩きながら一個目を食べ終え、自然と二個目に手が伸びたその時、急に桃の樹の森が捌けた。目の前に屋敷が建っていた。
「た、助かった!」
桃の果樹園の端を沿うようにして、塀が左右に伸びている。その向こうに瓦屋根が見えた。
この塀を伝って歩けば、いつかは玄関に当たるはず。しかし何故山奥にこんな立派な屋敷が? という疑問も浮かんだが、絶望の海から差した希望の光によってかき消されてしまった。
ただし歩いているうちに、疑問とは違う不安が募っていく。
総門に到着した俺は、再び絶望のどん底へ突き落された気分になった。
「……人が住んでるようには見えないな」
一言で言ってしまえば、廃墟のような屋敷だった。
雨風に晒された木製の門は全体的に変色しており、腐りかけている。石でできた塀は所々崩れ落ちており、ひどい場所では俺の腰辺りの高さまでぽっかりと穴が開いていた。
崩れた塀から、敷地内を覗く。
長い縁側の畔には、橋が掛かった小池。総門から玄関まで至る石畳。職人芸が垣間見える東屋や松の木の数々。きっと昔は、さぞ立派なお屋敷だったのだろう。人の手が入らなくなって年単位は放置されているその日本庭園は、水は濁り葉や雑草は伸び放題だった。
一目見ただけで、無人であることは容易に想像がつく。だが諦めるわけにはいかない。こっちだって命が掛かってるんだ。多少の非礼は許してほしい。
当然インターホンなどは無い。声を張り上げたところで母屋までは届かないだろうし、聞き取る人間がいるかも怪しい。というわけで、俺は崩れた塀を乗り越え、敷地内へと不法侵入を果たしたのだった。
風が凪ぐ。まるで敷地内の時間が止っているようだ。石畳を打つ俺の足音だけが、時を動かす生きた歯車のようだった。
と――、
「水の音?」
確かに聞こえた。雨でもなければ、滝のような継続的に水が落ちる音ではない。バケツに汲んだ水をひっくり返したような、一瞬の音。
誰か――最悪でも何かいる。
自分が不法侵入者であることも忘れ、俺は水の音がした方へ急いだ。
はやる気持ちを抑えながら、俺は屋敷の裏手へと回った。
「――ッ!?」
そこに一人の女の子がいた。
井戸の側で片膝をついている少女が、空の桶を手にしながら水浸しになっている。そこだけ切り取れば、井戸から汲んだ水を何かの拍子で溢し、自らに浴びせてしまったドジッ娘だろう。が、少女の空手着姿を見てピンときた。
禊。少女は自らの意思で、水を頭から被ったのだ。
少女が目を閉じて髪の水気を払っている間、俺は声を掛けるどころか微動だにすることすらできなかった。
最初に見つけた相手が自分と同年代の娘であり、しかも禊という非常な行為を目の当たりにしたから驚いた。という以上に、俺の眼が少女の肢体に釘付けになって離さなかったのだ。
水気を含んだ白い空手着が、透過度を増している。しかもその下には何も着ていないのか、帯や襟など生地の太い場所以外は、ほとんど肌色になっていた。
少女が前髪をかき上げたところで、はたと正気に戻る。罪悪感よりも先に、危機感が浮かび上がった。
今はタイミングが悪かった。人が居ることを知れただけでも良しとし、時を改めるべきだ!
考え、行動するまでは早い。音を立てず、屋敷の角に身を潜めるだけだ。
だがしかし、いつまでも少女の肢体から眼を逸らせなかった俺のスケベ根性が、ここで不幸を招いた。
少女は無慈悲にも、その瞼を開ける。
「…………」
「…………」
か、可愛い。と思うくらいの時間はあった。
可愛い、というか可愛らしい。おそらく俺と同年代であるものの、空手着が引っ付いた身体の線は細く、全体的に小柄だ。水を弾く白い頬は、先ほど食べた桃のように初々しい。頭から水を被った無邪気さが、少女の幼さを妙に際立てていた。
そして俺が少女の容姿を舐め回すようにゆっくりと描写できたのも、彼女が居るはずのない人間を目の当たりにして思考停止させているからだ。吊り目がちな瞼を最大限まで見開き、驚きを表している。
俺の方もまた、頭が真っ白になって微動だにできなかった。上半身をのけ反らせ、無意識のうちに少女から距離を取ろうとしてしまう。
体重が後ろに傾き、一歩足を引いたその瞬間だった。
水に濡れ、青く変色した唇が引き締まる。獲物を定めた豹のような眼光をした少女が見えたのを最後、視界が茶色い物体に遮られる。それが少女が投げた桶だと理解できたのは奇跡だった。当然、避けることなどできるはずもなく、桶の底が俺の顔面へと衝突した。
当たり前の物理現象に従い、俺は背中から地面へ倒れた。したたかに打ち付けた肩甲骨から激痛が奔る。頭を庇うのが精一杯だった。
起き上がる暇もなく、今度は地面に縛られる。馬乗りになった少女が、俺の両肩を押さえつけていた。
「目的は罪歌桃? 仲間は何人?」
覆い被さるように俺の顔を覗き込んだ少女が、無理やり低く作った声音で問うてきた。
質問の意味も現状も理解できない俺は、少しでも楽になろうと視線を逸らす。しかしはだけた空手着の襟からは少女の控えめな胸元がチラチラと覗いており、結局は正面から少女の眼光を受け止めるしかなかった。
「俺……は……」
声が出ない。喉の奥から押し寄せる言葉が、スクランブル交差点を渡る通行人のように縦横無尽に混乱していた。
ヒタ、ヒタと、少女の亜麻色の髪から落ちる水滴が、俺の頬を打つ。それがタイムリミットを刻む時限爆弾のようで、俺の心中は穏やかではなくなる。同時に、喉から漏れる吐息に嗚咽が混じっているような感覚さえ覚えた。
俺が無言でいると、やがて少女は業を煮やしたのだろう。わずかに顔を引いた。
「喋らないのなら、それでも構わない。李白蓮の名のもと、貴方を処分します」
処分!? いや、その前にこの少女、李白蓮って言ったか!?
唾液が絡みつく喉を、無理やり鳴らす。
「ホ、ホウリュウ!」
「?」
裏返った声は、追いつめられた獣のようだった。しかし訝しげに歪められた少女の表情から察するに、興味を示したのは間違いなさそうだ。これを機に、追い打ちをかける。
「俺、甫劉の……孫、弟子!」
片言になってしまった。宇宙人か俺は。
両肩を押さえつけられているので、身振り手振りとまではいかない。伝わったのかそうでないのか、少女の表情は険しくなる一方だ。
「甫劉って、杜甫劉のこと?」
「そ、そうそう!」
慌てて何度も頷く。顎を引くごとに喉が締まり、ちょっとだけ苦しかった。
ちなみに杜甫劉とは祖父の仙人としての名だ。晩年は若かりし頃の武勇伝を滔々と語っていたので、嫌でも覚えてしまっていた。
「甫劉の孫で弟子? 貴方が?」
いや、白蓮の弟子になるために桃源郷へ訪れたんだけど、如何せん胸を圧迫されているので長い説明ができない。小刻みに首を横に振るだけだ。
と、さらに疑い深げに目を細めた少女の視線が逸れた。
「これは……通行手形? じゃあ貴方、下界からやってきたの?」
そう言いながら、少女は俺のズボンのポケットから木の札を拾い上げた。遺言の内容と同じく、やはりアレは通行手形という認識で共通らしい。ということはつまり、俺は本当に桃源郷へ立ち入ってしまったのか?
少女がまじまじと通行手形を観察している。この時点で両肩の拘束は解かれ、彼女の体重程度なら無理やり起き上がって逃げ出すことも可能だったが、俺はあえてこのままの姿勢で待った。
「下界から来たってことは、罪歌桃が狙いってわけでもなさそうね。貴方、一人?」
少女の問いに、俺は黙って顎を引いた。
納得したのかそうでないのか判断のつかない顔で溜め息を吐いた少女が、通行手形を俺の胸へ投げて返した。
「そう。ま、いいわ。今は信じる。どうせ貴方を処分できる手段なんて持ち合わせていないし」
んなこと暴露しちゃっていいのかよ。
俺の下腹部から退いた少女が、はだけた空手着を整えた。
「貴方に悪意が無いのなら、話だけでも伺いましょう。着替えてくるので少し待ってて」
いきなり襲いかかった謝罪もなく、不遜な態度で少女は言う。まあ明らかにこちらが不審者であるため謝罪云々をとやかく言う気はないが、さすがに現状の理解が追いつかない。対話してくれるのは有難いが、その前に少しだけでも状況を整理しておきたかった。
「えっと……君は?」
「私は李白蓮の孫、李凛。祖父と甫劉の英雄譚は良く聴いていました。そういえば、貴方のお名前は?」
「俺は桜井カズキ……です」
童顔の少女はおそらく俺よりも年下なのだろうが、仰々しい物言いに気圧されて敬語になってしまった。喧嘩一つしたことのない俺には面と向かってメンチを切る度胸などないし、女気の少ない環境で育ったので、同年代の女の子にどう接していいかも分からない。そう考えると、俺ってスケートリンクみたいな平坦な人生を十六年間も送ってきたんだなぁ。
だからこそ、目の前に現れた大きな波に戸惑いを隠せそうにない。
「もう一つ、訊きたいことがあります。ここって桃源郷……なんですか?」
今後の行く末を左右する重要な質問だ。
だというのに、少女は地図を失った旅人から道を尋ねられる現地人が如く、さも当然のような顔をして答えた。
「当然でしょ? 通行手形持ってるんだから」
今のところ、これが山なのか谷なのか、俺には判断のしようがなかった。