第2章
ガタン! と荷台が大きく揺れ、俺のケツが悲鳴を上げた。その最後の一撃を境に衝撃が弱まり、車体が水平へと安定した。
「ようやく山を下りたようね。あ~、お尻痛い……」
ずっと素知らぬ顔だったから痛くないのかと思ってたけど、我慢してたのか。
山を下りた牛車は、道幅の広い街道へと出た。もちろんアスファルトなど引かれてはおらず、むき出しの地面だ。少し洒落た牛車や馬車、人力車などが、日没間近の住宅街程度に往来している。今のところ、妖怪らしき顔は見えなかった。
「おい、あれって……」
街道の端で等間隔に並ぶ、立派な松の木のさらに向こう。目を凝らすと、日光によって輝く水平線が見えた。
「あれ、海なのか?」
「そうよ。屋敷の標高は結構な高さだし、森が壁になって罪歌園までは潮の香りは届かないけどね」
「桃源郷に海があるとは思わなかった」
驚きと感動の溜め息を漏らすと、凛がすごく渋い顔をした。眉間と顎に形容しがたい皺が寄っている。この表情は、俺をバカにしているものだとすぐに分かった。
「貴方、今日の今日まで何を食べてきたの?」
「なにって……あー」
ひじきもあったし、汁物の中にはたまにワカメも入っていた。それに食塩は人間が生きていくうえで必須の物質だ。よく考えなくても、どこかに海があるのは当然の摂理といえよう。
「いや、ほらさ、下界で得た桃源郷のイメージ的に……。仙人は山に籠るものだと、勝手に決めつけてたからさ」
などと言い訳をする自分が、とても惨めだった。ハズカシー。
田畑に挟まれた街道を真っ直ぐ往くこと数十分、ようやく前方に家らしきものが見えてきた。
「おー!」
思わず声に出して感動してしまう。
電柱もなければ、標識もない。建物の屋根は瓦か木材で、そのほとんどが平屋だ。ガラスの戸がある屋敷ですら、けっこう稀だ。
そう。この街並みは、江戸時代の日本を再現したかのような佇まいだった。
もちろんタイムスリップしたことはないので個人的なイメージだけど、小学校の修学旅行で映画村へ行ったことがあるし、水戸黄門もそこそこ観ている。武士がいる時代の街並みのイメージと、大きくかけ離れてはいなかった。
ただ牛車や馬車が往来するためか、通りの幅は想像以上に広い。それに来場者を楽しませるための小奇麗さや、テレビの中の作り物感はまったくなかった。あと残念なのは、すれ違う人々は皆着物だが、ちょんまげや帯刀している人は見当たらないところか。
「ま、突然斬られても嫌だしな」
「斬り捨て御免の精神なんて、桃源郷にはないから」
「よく知ってるな、そんな言葉」
「まあね」
凛が何故か得意げに笑うと、街の真ん中で牛車が止った。
「さぁ御二方、着きましたよ」
先に御者台から降りた老人が、凛に手を貸した。
後に続く俺は、ついつい癖で席の方を振り向いてしまう。バスや電車なんかで、傘などの忘れ物がないか確認するためだ。じっくりと座布団を見回したところで、俺の持ち物は凛からもらった巾着袋だけであることを思い出した。
「そいでは、お気をつけて行ってらっしゃいませ。……おや?」
「おわっ!」「きゃっ!」
俺と凛は、同時に驚きの声を上げた。
突然、水牛が二頭とも暴れ出したのだ。ただ暴走というほど荒れ狂っているわけではなく、落ち着きがないように、その場で地団駄を踏んでいる。まるで一刻も早くこの場から逃げ出さんばかりに、怯えているようだ。
御者の老人が慌ててなだめるも、暴れ出した理由が分からず、ただただてんやわんやしているだけだった。
「すみません、李さん。どうやらこいつ等の調子が悪いようで、いったん厩舎に戻りますわ。買い物が終わったら、ワシの店に寄ってくだせえ」
「あ、はい。ありがとうございました」
二人で一礼すると、老人はそそくさと御者台に乗り込み、荒れ狂う水牛を従えて去っていった。
「さて、買い物しましょうか……と言いたいところだけど、私が山を下りた時に必ずすることがあるのよね」
「なにするんだ?」
「お団子、お団子ぉ~♪」
買い食いっすか。若い娘としては健全でいいことだが、道士としては如何なものか。
本当に毎回の楽しみなのか、凛はスキップしながら、店先に赤い長椅子が並んでいる団小屋へと向かった。
「おばあちゃん、団子四本頂戴。あと熱いお茶!」
三食団子四本か。日頃の精進料理に比べると、食べすぎのような気もするが。
「貴方と半分ずつに決まってるじゃない」
「そ、そうか。悪いな」
「もちろん後から追加するけど」
「……さいですか」
太らないように、日々の力仕事を少しでもいいから手伝ってほしいものだ。
長椅子に座り、凛と並んで三食団子を頬張る。罪歌桃以外の甘い物を食べるのは久しぶりだ。それに近所のデパートで売っている団子と遜色ない美味さがあり、感動で涙が出そうだった。
横目でチラリと凛の顔を窺ってみる。頬いっぱいに団子を詰め込んだその顔は、とてもご満悦のようだった。その表情を見れただけでも、街へ降りてきた甲斐があったかな、と思った。
道行く人々や牛車を眺めながら、しばらく無言のまま食べることに集中する。平和な街並みだなぁ、などと感想を抱きながら呆けていると、凛の方の皿の串が、すでに二桁に達しようとしていることに気づいた。
「食べすぎじゃないか?」
「たまにしか街へ来ないんだから、こんな時くらい別にいいの」
道士の修業はどこへやら。ま、どうでもいいけど。
凛の食い意地に呆れていると、どこかで男の怒鳴り声が聞こえた。息遣いの荒い叫びは徐々に近づいてきてるのか、今度ははっきりと聞き取ることができた。
「も、もの盗りだ! 誰か、捕まえてくれぇ!」
道の向こうから、半纏姿の男が必死の形相で駆けてきた。道行く人々は、なんだなんだと彼を振り返る。
「モノトリ?」
一瞬だけボードゲームが浮かんだ。そんな物、桃源郷にあるのか?
まぁ冗談はさておき、必死に走る男の前方へ視線を移したところで、俺の頭の中のボードゲームが盗人へと変化した。
何を盗んだかは知らないが、抱えて走ることができ、なおかつ追手の男を引き離せる速度で逃走できるくらいには軽い物だ。残念ながら俺は脚力に自信はないし、今から立ち上がったところで、追手の男の尻を追いかけることになりそうだ。盗人はすでに右から左へと、俺たちの前を光の速さで通過していた。
だが目で追いかけるのは、どこまででも可能だった。俺と凛は、盗人に訪れた顛末を目撃して、驚嘆する。
盗人の逃走劇に終止符を打ったのは、年端もいかない童女だった。
漆色のおかっぱ頭に、芒柄の着物。年の頃は十も満たないだろう。精巧な日本人形みたいではあるが、直立不動のその佇まいからは、さながらコケシのようだった。
そんな置物のような童女の側を、盗人が走り抜けた瞬間だ。何を思ったのか、童女が盗人の側面へと飛びついた。行動そのものは可愛らしい体当たりだったものの、盗人が全力疾走だったためか、地面へ倒れこむその姿は、さながらタックルされたアメフトのランニングバックだった。
それから顛末に至るまでは速かった。
被害者の男が追いつき、盗人は捕えられ、駆けつけた官憲らに連行されていった。大手柄の童女は、野次馬たちから称賛の嵐だった。
「ふーん、街の子供は活発的なのねぇ」
事の成り行きを、呆けながら見守っていた凛の感想がこれだ。いや、もっと何かあるだろうし、しみじみと熱いお茶を飲みながら言うので、とても婆臭かった。
ふと、被害者の男と話していた童女がこちらを向き、その顔をはっきりと窺えた。
その瞬間――、
「ブーーッ!」
何故か凛がお茶を噴き出した。
「なっ、おま、汚ねぇよ!」
「白狼公様!?」
俺の一喝を完全に無視した凛が、驚きのあまり立ち上がった。
凛の声が届いたのか、童女の方も俺たちの存在に気づいた。
「おや、誰かと思えば凛ではないか。久しいのう」
ガラスのような瞳が細められる。柔和に浮かべられた笑顔は、幼年期特有の無邪気さが感じ取られたが、小さな口から紡ぎ出された声は歳不相応に枯れていた。
「お久しぶりです、白狼公様」
「うむ。それと水汲み男か。わしと対面するのは初めてだな」
戸惑いを隠せない俺とは対照的に、凛は声を弾ませながら一礼した。
なんだ、街にも知り合いくらいいるんじゃないか。歳は離れているとはいえ、そこそこ親しい仲なのだろう。完全に一人ぼっちではないことを知り、少しだけ安心した。
いや、ちょっと待て。俺のこと、水汲み男って言ったか?
「なんでその娘、俺が水汲みしてるって知ってるんだ?」
「ばっか、挨拶くらいしなさい! 白狼公様は森の主なのよ。いつも水とか薪枝とか分けてもらってるんだから、きちんとお礼を言いなさいよ!」
「森の主?」
そういえば水汲みや薪枝を拾い集める際、森に入る前にいつも挨拶してたもんな。凛の言葉を疑ってはいなかったから、森の主自体はどこかにいるんだろうなと思っていたけれど……それがこんな小さな童女?
「凛よ、街の中でその名を呼ぶな。わしのことは白と呼べ」
「す、すみません」
驚いた。いつも高慢ちきな態度の凛が、腰を曲げて謝っている。未だ信じることはできないが、どうやら凛よりも格が高いのは間違いなさそうだった。
「して、こんな所でお主らは何をしておるんじゃ?」
「買い物です。白様こそ、どうして街にいるんですか?」
「ちょっとした野暮用でのぉ」
「野暮用?」
「最近、森が少しずつ変化しておるのでな。街に何か原因があるかもしれないと思って、様子を見に来たんじゃ」
「原因は見つかったんですか?」
「いや、原因は分からん。が、どうやら街も以前と比べて変貌しておる」
無邪気な笑みを消した白狼公様が、先ほど盗人を捕えた場所を指でさした。
「わしが街に降りてほんの一刻も過ぎぬうちに、盗人に遭遇した」
次に家屋と家屋の間の小路を示す。
「裏道の奥で、男二人が殴り合いの喧嘩をしとった」
最後に大通りの先へと、指先を移した。
「向こうの万屋じゃ、客が大声で苦情を申し立てておったのぉ」
「えっと、つまり?」
童女の言う真意をつかみきれず、俺はたまらず訊き返してしまった。
嬉しそうに目を細めた童女が、俺を見上げた。
「つまり以前よりも治安が悪くなってるってことじゃ」
「治安が悪くなった?」
俺は凛の横顔を一瞥した。初めて訪れた街の治安状況など、俺には判断できない。
そんな俺の視線を感じ取ったのか、凛が溜め息交じりに返してくれた。
「前に、桃源郷は理想郷の権現みたいなものってことは説明したよね。罪歌園が人々の欲望や穢れを吸い上げてくれるから、すべてが平和で誰もが幸せに暮らせる世界になってるって。だから大きな犯罪や争い事は起こらないわけだけど……失礼ですが、白様。欲望や悪意の大きさには個人差があります。いくら罪歌園が抑制してくれているからといって、絶対とは言い切れません。白様が仰った出来事は、普通に起こり得ることでしょう」
「たった一刻のうちに三件でもかの」
それには凛も黙らざるを得なかった。
場所にもよるが、今の日本でも、たった三十分の短い間に、泥棒と大喧嘩とクレームが狭い範囲で起こるのは、そこそこ珍しいと思う。理想郷と謳われる桃源郷では、一大事と言えるほどかもしれない。
「まぁよい。わしも先ほど街に降りてきたばかりじゃ。どうじゃ、せっかくだから一緒に街を散策せぬか?」
「えぇ、喜んで」
こうして、得体の知れない童女が仲間になった。彼女が何者であれ、買い物のお供としては役にも邪魔にもならないだろう。どうせ荷物を持つのは俺だし。
っと、その前に。
「凛、団子の支払い済ませろよ」
「忘れてた」
おいおい、いくら桃源郷でも悪意のない罪は吸い取ってくれないだろ。
そんな連れの天然ぶりを呆れながら眺めていると、突然、凛の顔が真っ青に変化した。サッという血の気の引く音が擬音語として聞き取れたほど、顔色の急降下だった。
「どうした? 腹でも壊したか?」
軽く俺の三倍は団子を食った凛である。天罰が腹を下したのだろう。
しかし凛の顔色の変化は、彼女の体調とは無関係だった。
「無い……」
「無い?」
「財布が無い!」
なんだなんだ、財布が無いのか。体調が悪くなくてよかったぜ。せっかく何時間もかけて街に降りてきたのに、速攻で下痢なんてしたら報われないもんな。俺が。
いやいやいや。財布が無いとか、意外に大事件じゃねーか!
「屋敷に忘れてきたのか?」
例えば財布を落とした際、『これからどうするか』と真っ先に考えるのが文系で、『どこで落としたか』と原因を探るのが理系だと聞いたことがあるが、どうやら俺は後者だったらしい。
ま、そんなことはどうでもよくて。
「私がそんな間抜けなわけないでしょ」
「つっても絶対なんてことはないからな。自分が持った気になっても、無意識のうちに忘れてるなんてことは良くある……」
年長者を気取って説教を垂れてみたものの、喋っている途中で思い出した。
屋敷の外で牛車を待っている際、凛は俺に貨幣の入った巾着袋を渡した。同時に、凛が自分の財布をしっかりと法衣の内側に入れているのを見ているではないか。屋敷に忘れたというのはあり得ない。
「じゃあ落としたとか?」
「どこに落とす余地があったのよ」
「だよなぁ」
屋敷から街まで、ずっと牛車の荷台に乗っていたのだ。牛車が動いている最中に落とすわけがないし、落としたらさすがに気づく。そして街で降りてからも、移動距離はほんの十数メートル。団子屋で一服しながら、牛車を下りた地点もずっと見ていた。
「牛車の荷台に置き忘れたとかかな?」
「いや、降りる時、俺がちゃんと確認した。間違いなく何も無かった」
「じゃあどこで消えたって言うのよ!」
「……怒るなよ」
感情的になった凛は珍しいが、無理もない。失くしたのは、白蓮が遺してくれた大事な財産なんだから。……ってか、明らかに凛が悪いのに言い返せない俺って。将来、奥さんの尻に敷かれないか心配だった。
「取り込んでるところ悪いのだがの。凛、もしや掏摸に遭ったのではなかろうか」
「掏摸?」
「んな馬鹿な。牛車から降りて、凛に近づいた人間なんて……」
言いかけて、俺と凛は同時に「あっ……」と声を上げた。
こんな短時間で、俺以外に凛に触れた人物は一人しかいない。
御者の老人だ。
「でも……そんなこと、あり得ない……です」
凛が目に見えてうろたえだした。視線を地面に落としたり宙に浮かせたり、落ち着きがない。その定まらない動作は、凛の混乱した思考をそのまま映し出していた。
「だって御者さんはおじいちゃんがいた頃からお世話になってた人だし、とてもいい人だし、他人の物を盗むなんて、そんな……」
「今まではそうじゃったかもしれん。もしかしたら、街の悪行が増えたことに関係があるかもしれんのぉ」
「どういうことですか?」
言葉を失い俯いてしまった凛の代わりに、俺が訊き返した。
しかし白狼公様は、両肩を持ち上げて「わからない」というジェスチャーをするのみだった。
「先ほど官憲に連れて行かれた盗人も、盗みで生計を立てているとは思えん。しかも足は速かったとはいえ、普通の思考能力を持った人間なら、白昼堂々する咎ではない。わしが思うに、奴の行いは突発的なものじゃろう」
「つまり御者が凛の財布を掏ったのも、突発的なものだと?」
「おそらくのぉ」
見た目の割に、えらく歳よりくさい口調で白狼公様は頷いた。
今まで黙っていた凛が、喉の奥から声を震わせて返す。
「口ごたえするようで申し訳ありませんが、やっぱり御者さんが掏摸なんてするとは思いません。例えそれが突発的な犯行でも」
「だからこそ異変なんじゃろうな」
「異変?」
「本来、罪を犯すべきでない者が悪行を為す。これを異変と呼ばずしてなんと言うか」
確かに異変といえば異変だ。対象が人であるため、豹変と表現した方がいいかもしれない。だが、どちらにせよ、たとえ本人の意思が関わっていようがなかろうが、盗んだ事実には変わりがない。
心配になり、俺は凛を一瞥した。
「まだ、御者さんが掏ったって決まったわけじゃない」
俺の心中を読み取ったように、凛が呟いた。
それもその通りだ。状況的な消去法を行った結果、御者が掏った可能性が一番高いと導いただけだ。証拠なんて微塵もない。
けど……。
少し間があく。凛が黙り込んでしまったところで、俺は核心を突いた。
「これからどうするんだ? 金がなきゃ買い物なんてできないし、帰るにしても御者の店に行かなきゃいけないだろ」
「…………」
凛の心中は手に取るように理解できた。
ほんの少しでも疑ってしまった自分を咎めているため、御者と顔を合わせづらいのだろう。長年付き合いのある人物だから尚更だ。おそらく凛は、御者に掏ったかどうか問いただすことも、何食わぬ顔で帰りの便を頼むこともできる自信が無いはずだ。信頼しているからこそ、そして数少ない知り合いとの関係を崩したくないからこそ、凛は身動きが取れないでいる。
けれど、それでは困るのも事実だ。ここから山の上の屋敷へ歩いて帰るのは、もしかしたら数日単位かかると思うし。
「ふむ。凛の気持ちはよぉく解るのぉ」
こけしのような佇まいの白狼公様が、うんうんと頷いた。
「わしもそこそこ長く生きておるもんで、人間の心情は大方把握できるぞ。凛、行動しかねておるのなら、一度保留にするのはどうじゃろう?」
「保留?」
「うむ。金が無いから買い物ができないのは仕方がないが、お主の屋敷に帰る方法なら他にもある」
得意気に胸を張る童女を前に、凛は戸惑いを隠せなかった。
「お言葉ですが白狼公様。おじいちゃんと懇意にしていた御者さんだったからこそ後払いだったわけでして、他の牛車を雇うのは基本的には先払いです。カズキの所持金で団子代を払っちゃったら、私たちはほぼ無一文です」
「なにを言っておるか。わしが一肌脱いでやろうと言っとるんじゃ」
「白狼公様が!?」
なんだなんだ? この童女、御者の知り合いでもいるのだろうか。
話の流れについていけない俺は、二人の会話を聴いていることしかできなかった。
「白狼公様のお背中を借りるなど、そんな畏れ多い……」
「白と呼べと言っておるじゃろが。まぁ、知人が困っておるのに助けぬなど、森の主としての威厳にも関わるからの」
「でも、白様は街の様子を見に来たんじゃ?」
「構わん。また山を下りればよいだけのこと。しかしそれでもまだ拒むというのなら、少しばかり強引な方法をとる必要があるのぉ」
不意に、空気が張りつめた。一本の糸を両側から引っ張ったように、一切の自由を失った感覚に陥ってしまう。
ただの錯覚かとも疑ったが、どうやら違うらしい。
屋根の上で羽を休めていた雀たちが一斉に飛び去り、飼い馴らされている犬が天敵と会いまみえた時のように吠えだし、道を行き交う人々が突然の雨に襲われたかのように両手で頭上を覆った。
張りつめた空気はやがて、鋭利な刃物となって俺の喉元へ喰らいつく。全身の汗腺が刺激され、冷たい感触が肌を覆った。
その間、わずか数秒である。白狼公様が犬歯を覗かせて得意気に微笑み、次の言葉を発するまでの間。そんな一瞬で、俺は死を意識させられた。
「凛よ。この白狼公が命ずる。わしに助けを乞え」
俺の前に立つ凛の表情は窺えない。緊張のあまり肩を強ばらせたのち、小さく吐息した音だけは聞こえた。
「……参りました。白様、どうか私たちを屋敷まで送り届けてください」
「うむ。承知した」
満足げに頷いた白狼公様が、童女らしい無邪気な笑みを浮かべて「かかか」と笑った。
出発前に渡された小銭で団子代を支払った俺たちは、街はずれへと移動した。松の木が整列する街道からは逸れ、近場の雑木林の中に身を隠す。牛車も馬車もなしに、こんな場所からどうやって屋敷へと帰るのだろうか。
「この辺りなら誰も見ておらんじゃろ」
俺たちを引率していた白狼公様が立ち止まった。
木々の壁に阻まれて街の喧騒は届かず、またただ街道を歩いているだけでは絶対に立ち入らない程度に奥まった場所。少し場が開けている以外は、何の変哲もない所だった。
「凛、着物を頼むぞ」
そう言った白狼公様が、一肌ではなく何故か着物を脱ぎ始めた。
心臓ドキドキ、背筋ヒヤヒヤものである。童女の幼児体型に情が傾く変な性癖を持ってはいないが、何も知らない人からすれば、どう見たって追剥&婦女暴行である。あるはずもない視線がどこからともなく突きつけられているように思えて、ついつい背後を確認してしまった。
「少し離れておれ」
言われた通り、俺と凛は白狼公様から距離をとった。
その瞬間、背中を向けた童女の身体が膨張した。両手足や腰、肩の内側から肉が膨れ上がり、一瞬にして童女の元型を崩す。露わになった筋肉には滑らかな皮が生まれ、全身から銀色の体毛が現れた。
身の毛もよだつその光景に、思わず尻もちをついてしまう。
童女の身体から溢れ出た骨格や体毛が徐々に形を整えていき、恐れ慄きながら二回ほど瞬きを終えた後には、目の前に巨大な狼が鎮座していた。
『暑いの。できればこの時期は、毛の少ない人の姿で過ごしたいものじゃ』
肩越しに振り向いた銀色の狼が、大の大人一人くらいは丸呑みにできそうな口を開いて言った。
言われてみて気づいたが、確かに暑い。気温がというよりも、全力で運動をした人間から放たれる熱気に近かった。
「では、白狼公様。よろしくお願いします」
着物を帯で結んだ凛が、平然とした態度で一礼した。
マジか。衝撃的なアハ体験だったというのに、眉ひとつ動かさないなんて。
「凛。白狼公様って……」
「森の主だって言ったでしょ。白狼公様は一時で千里を奔る伝説の狼なのよ」
『凛よ、さすがにそれは盛りすぎじゃ。全盛期は休みなしで千里を奔れたというだけであって、ゆうに半日は要したぞ』
それでもチーターの三倍くらいの速度は出せるんだな。
それにしても、童女が一瞬にして巨大な狼に変身してしまうなんて、桃源郷にはまだまだ俺の知らないことが多くありそうだ。つーか、そんな光景を目の当たりにして腰を抜かす程度で済むなんて、俺って実はすごくないか?
『二人とも、何をしておるか。早う背中に乗れ』
「背中?」
お座りの状態で待つ白狼公様が、早く奔りたいと言わんばかりにウズウズしていた。
しかし背中といっても、牛車みたいに荷台や座席があるわけでもない。
「肩の辺りまで登って、毛を掴むのよ」
「マジか!」
実は自分より巨大な哺乳類を触れた経験など、ほとんどない。せいぜい牧場の馬に乗ったことがあるくらいだ。いや、そもそも象くらいのサイズがあり、チーターの三倍で奔る生物など地球上には存在しない。
それを、背中に乗る? またまたご冗談を。
しかし半笑いで誤魔化している俺を尻目に、凛はさっさと背中に登っていた。
「早く。白狼公様を待たせないの」
どうやら俺に選択権は無いらしい。
意を決すように息を呑み、白狼公様の体毛に触れた。光ファイバーのような繊細さと輝きを放っており、風が凪ぐ草原のような柔らかさがあった。
『心配せんでも、束で掴めばそう簡単には抜けぬよ』
完全に俺の懸念をお見通しのようだった。
銀色の束を掴み、梯子を上る要領で肩の位置まで到達する。そういえば昔、身体をよじ登って巨像を倒すゲームがあったなぁ。
『それでは行くぞ。しっかり掴まっておれよ』
俺が凛の横に並ぶと、白狼公様が後ろ脚を上げた。背中が水平になり、加えて肌触りの良い体毛に覆われているので、思ったよりも乗り心地が良い。
「油断はしない方がいいわよ。速いから」
凛の忠告の意味は、すぐにこの身を以て理解することができた。
ドンッ! と後ろ足が地面を抉る音が聞こえたのと同時に、全身が風に呑まれた。周囲を囲んでいた雑木林が一斉に後方へと流れていったと思ったら、いつの間にか街道に出ていた。
方向転換をするため、一瞬だけ宙に浮いた感覚を味わったのも束の間、白狼公様は街道を物凄いスピードで走りだした。
凛の忠告がなければヤバかった。走行中は銀色の体毛に身を任せているため握力はそれほど使わないが、静止から一瞬でほぼ最高速度に達する衝撃は、正直腕が千切れるかと思ったよ。
しばらくすると、地面を見渡せるくらいの余裕は出てきた。
道行く水牛や馬は取り乱したように暴れ、人々は驚きの声を上げて振り返る。いくら速いといっても、せいぜい新幹線を引き離せる程度だ。目に映らないほどではない。巨大な狼を目の当たりにして腰を抜かす人すらいないところを見ると、どうやら桃源郷では、これくらいの巨大生物が道を往来するのは、それほど珍しいことではないのかもしれない。
『山に入る。顔を伏せ、枝に気をつけよ』
牛車で数十分かかった街道を、ものの一分で走り終えてしまった。スゲー。
忠告通り、俺は頭を伏せた。木を避けつつ奔っているためか、だいぶ速度が落ちる。ただ少しばかり傾斜が現れたため、先ほどよりも握力を要した。
頭を伏せたたため、隣にいる凛の姿が自然と目に入った。
彼女は最初よりも少し位置を下げていた。
「おい、大丈夫か?」
「……うん」
弱々しい返答は、どう見ても大丈夫そうには見えなかった。
そういえば、凛は白狼公様の着物を抱えているんだった。荷物があってはしっかりと掴めまい。迂闊だ。
俺は片手を放し、凛の背中へ腕を回した。そのまま脇の下でガッチリと抱き寄せる。シートベルトの模倣だ。何も無いよりもマシだろう。
「あ……ありがとう」
先ほどよりも近くなった凛の口から、そんな言葉が小さく漏れた。
できればもう少しだけ長くこうしていたいなと、腕に暖かな体温を抱きながら、俺は素直にそう思った。




