第5章
風呂釜を八割ほど満たす頃には、陽が西へ沈みかけていた。
結局あの後、半分は勘で泉へ戻ることができた。もう半分は妖精の導きだ。迷う俺を素直に道案内しようとする妖精と、さらに迷わせようと悪戯心のある妖精を見抜き、辛くも到着した次第だ。妖精の仕草を見分けられるほど桃源郷色に染まってしまっていることについては、少しだけ泣きたくなった。
それから何往復も水を運び、火を起こして湯を沸かした。格子から差し込む月明りだけでも十分に視界を確保できるが、一応は念のため、風呂場に蝋燭も灯す。あらから準備を整え凛を呼びに行こうとしたところ、廊下で出くわした。
「凛、風呂の準備できたぞ」
「……貴方、なにそれ」
「?」
指差した先は、俺の頬。あぁ確か、莱夢さんの投げたナイフが、頬の肉を深く削っていったっけなぁ。痛みもないし血も止まったし鏡もないので、今の今まで忘れてた。
「あぁ、コレな。水汲みの時に、莱夢さんって人……魔女に会ったんだ」
「ふーん。ま、いいわ。夕飯できてるから、食べなさい。私はお風呂に入る」
「おう」
淡白だったなぁ。ただ嫌っているような反応でもなく、だからといってまったくの無関心というわけでもなかった。正直あの二人の距離感は、会話のやり取りや態度を見てみないことには分からない。
「莱夢さんも、近いうちに来るって言ってたしな」
凛がどんな態度で莱夢さんに臨むのか、ちょっとだけ楽しみだった。
自分の部屋で夕食を食べ終え、畳の上で寝転がったところで、眠ってしまったようだ。水汲みというハードワークが、相当身体に負担を与えていたのだろう。物思いに耽た記憶もないまま、意識がぷっつりと途切れた。
だから凛が呼びに来るまで、どれだけの時間が経過したのか俺には分からない。
「カズキ、お風呂空いたわよ」
声も掛けずに襖を開けた凛が、抑揚のない声で言った。
初日の夜と構図が似ており、ちょっとだけ焦ったのは内緒だ。
「俺も入っていいのか?」
「当たり前でしょ? 入っちゃいけない理由がないもの」
キョトンとしながら、凛はバカを見る目で俺を見据えた。
前から思っていたけど、女の子には珍しく、凛は意外と理屈屋だ。言動にあまり感情が介入しない。それはまるで、最適で無駄な文章の省かれた数学の解のように。
「んじゃ、お言葉に甘えて入らさせてもらいましょうかね」
寝起きのおぼつかない足取りで、風呂場へと向かった。
風呂場に脱衣所なんてものはない。なので濡れた簀子の上で服を脱ぎ、小汚い籠の中に入れた。
俺の服は登山当日に着ていたものと、代えの一組しか持ってきていない。今は一日交替で洗って着ているが、このままではそう長くはもつまい。この先、もう少し桃源郷に留まるつもりなら衣服を確保したいけど……そういえば、莱夢さんは結構カジュアルな服装だったな。もしかしたら、頻繁に下界へ降りているのかもしれない。今度、ダメ元で頼もうかな。
なんてことを、籠の中の衣服を眺めて考えていると――、
ガラン! と引き戸が開いた。
「おじいちゃんの浴衣があるから、よかったら着なさい」
「…………」
もちろん全裸である。そう、俺が!
こういうシチュエーション、普通は逆なんじゃないかなぁ。
弾けそうに高鳴る心臓を押さえながら、ゆっくりと後ろを向いて股間を隠した。俺は今年で十七歳。思春期の高校男児は、必要以上に羞恥心を抱くものである。
しかし羞恥心とは無縁の暮らしをしていた凛は、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「……お前さ、入ってくるなら声くらい掛けろよ」
「?」
さらに訝しげに顔を歪ませると、その視線が俺が必死に隠そうとしている股間へと移った。そして人を食ったような笑いを漏らした。
「なるほどね。それは確かに恥ずかしいわ」
「……何が言いたいんだ?」
「おじいちゃんから聞いた話だけど、一般的な男根の大きさは五寸弱。貴方のはどう見ても二寸もない!」
「いや、これはだな……」
「どうでもいいけど、早く入りなさいな。風邪ひくわよ」
「…………」
この誤解、解いた方がいいのかな。……やめよう、恥ずかしい。
凛がそこにいるため、身体も流さず早々に湯船に浸かった。確か凛は今十五歳で、白蓮と甫劉が同い年ならば、亡くなったのは八十七歳か。とすると、凛の物心がつくのは、少なくとも白蓮は七十代半ばだったわけで……なるほど、凛が勘違いするのも仕方がないことだな!
「てかお前、いつまでそこにいるんだ?」
「お湯が少し冷めちゃったから、沸かしてあげようと思っただけよ」
薪を拾った凛が、風呂釜の側で屈みこんだ。風呂の縁から覗き込むと、凛の旋毛が見えたのだが……俺自身が裸ってのもあり、妙に背徳感を抱いてしまう位置関係だったので、即座に元の位置に戻った。
しばらくすると、お湯がいい感じに温度を上げてきた。風呂釜は鉄製であるため、そろそろ側面に身体を預けるのはやめよう。
「ねぇ」
突然、凛の声が聞こえた。顔を上げなかったので、薪が弾けた音と勘違いするほど小さな声だった。
「なんだ?」
「さっき訊き忘れてたけど、あの魔女、森で何してたの?」
莱夢さんのことか。
さて、どう答えるべきか。老婆のことも野盗退治のことも話すわけにはいかないので、出会った状況だけを言った。
「水浴びしてたんだよ。そこで偶然出会ったんだ」
「ふーん。水浴び、ねぇ」
ん? なんか、含みのある反応だったけど。
そして我が身に起こる異変に、すぐに気づいた。
「凛。そろそろ熱くなってきたんだが」
「…………」
「あの、凛さん? そろそろ火を消してくれませんか」
「大方、水浴びを覗き見てて斬られたんでしょう」
頬の傷のこと言ってんのか? いや、そうだけどさ!
本気でゆでたこ状態になる前に、「冗談よ」と呟いた凛が火を消してくれた。俺としては今すぐ出て身体を冷やしたかったのだが、凛がそこにいる以上、手拭いもなしに全裸で飛び出すのは躊躇われた。
「ねぇ」
と、用を終えたにもかかわらず、座り込んだままじっと燃えカスを眺めている凛が、先ほどと同じ抑揚で言った。
「あの魔女、私のこと何か言ってた?」
「何かって、なんだ?」
「なんでもよ。無かったら別にいいけど」
凛について、かぁ。莱夢さんが話してたのは、自分のことと凛の境遇くらいのもので……あぁそういえば、自分一人じゃ何もできない馬鹿な女だ、とか言ってたっけ。でも、これ言っちゃうと、二人の仲がさらに険悪になりそうで怖い。
「別に、特に何も言ってなかったよ」
「そう」
「あー……ただ俺に、凛と仲良くしてやってくれ、とは言われたな」
ピクッと、凛が肩を震わせ反応した。
そのまま何か言うこともなく、じっと炉の炭を見つめていた。俺の位置からは、依然として凛の旋毛が見えるだけで、彼女がどんな表情を浮かべているのか、皆目見当もつかなかった。
……マズイな。そろそろのぼせそうだ。
「あのさ、凛。俺って迷惑じゃなかったか?」
「迷惑?」
久しぶりに凛が顔を上げた。その表情には特別な感情を浮かべているわけではなく、ただただキョトンとしていた。
「いや、ほらさ、結局のところ俺は凛にとって招かざる客だったし、食事も洗濯も二人分やらなきゃならなくなっただろ。負担も増えただろうし、大変なんじゃないか?」
「後回しにしてた仕事をしてくれてるんだから、持ちつ持たれつよ。役割分担してるんだから、大変だなんて思ったことないわ」
「それはまぁそうだけど……」
「二度と言わないで」
きっぱりと宣言した凛の顔を見ると、可愛らしく頬を膨らませていた。どうやら怒っているようだった。
「自分が迷惑なんじゃないかって、二度と言わないで。私は迷惑だなんて一度も思ってないし……感謝してるんだから」
そう言い残した凛が、さっさと浴室から出て行ってしまった。
風呂釜の中で、唖然としながら取り残された俺一人。凛の言葉が全身に染み渡ったところで、ついつい笑みを浮かべてしまった。そして俺は、一つだけ決心する。服のことは莱夢さんに頼むか諦めよう、と。
この章で第2話は終わりです。しばらくは更新しません。




